妖魔夜行 闇より帰りきて 友野詳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)儚《はかな》く |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)最期の一|刹那《せつな》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#改ページ] -------------------------------------------------------   目次  1 帰ってきたもの  2 強敵出現  3  <うさぎの穴> にて  4 望み望まれぬ再会  5 闇のはらむもの  6 隠される過去  7 稀文堂襲撃  8 古き国へ  9 娘が母を語る日  10 砕ける波  11 呪法満ち潮  12 迫りくる嵐  13 決意の刻  14 そして……あらたな命  妖怪ファイル  あとがき [#改ページ]  1 帰ってきたもの  夏が終わりかけている。  波の音は、彼女の鼓動に似ていた。  ほんのかすかで、聞こえるか聞こえないか程度で。  今にも止まりそうだ。 『このまま、静かに死んでいければいい』  ホテルの窓から、暗闇《くらやみ》の海を見つめながら、六辻《むつじ》妙子《たえこ》は思った。 『あのとき、激しく打ちすぎたんだ、あたしの心臓。それで力を使い果たしちゃったのかも』  それはほんの四カ月前のことだ。  部屋は違うけれど、同じこのホテルで。  彼女の心臓は、生まれてこのかたないくらいに高鳴っていた。十九年の生涯で、いちばんのときめき。  思い出に浸りながら、彼女は、頬《ほお》をゆっくりとガラスに押しつけた。そうしても、波の音はちっとも大きく聞こえない。それどころか、ますます遠ざかっていくようだ。  ひんやりとしたガラスの冷たさが、彼女の体に伝わり、広がってゆく。 『このまま、氷になってしまえればいいのに』  もう、心は凍ってしまったのだから。  ここは東京、いわゆる臨海副都心。  砂浜のある公園を、みおろすように建てられたホテル。まるで、リゾートマンションのような外観だ。  ベランダもある。 『この窓を開けて、外に出て……』  手すりをのりこえれば、何もかも忘れられる。冷えきった心の底で、体のいちばん奥で、う  ずいている氷も焦がすような熱さからも逃げられる。  彼女は、右手で、そっと自分の体に触れた。おへその下、柔らかくもりあがったあたり。そこにあったぬくもりが去ってしまったことで、彼女は凍りついてしまった。  支えてくれるはずの、あのひとも、いなくなってしまった。いや、彼がいなくなったから、ぬくもりも消えてしまったのかもしれない。 『会いたい……』  その思いが、冷えきった体を焦がす。暖めてはくれない。体の芯《しん》を焼くだけ。切り裂かれるように痛いだけ。  だから、ここから飛び降りれば楽になれると、そう思ってしまう。  前に進むかわりに、ふりかえって暗いままの部屋に戻ってもいい。明かりをつけなくても、窓からさしこむ月光で、バッグまでたどりつける。その中にはいっているビンだってとりだせるだろう。  ビンの中の薬を飲むのに、明かりはいらない。  どちらでもいい。  そう思いながら、六辻妙子は動かなかった。 『あのときの部屋は、三階だった』  四カ月前のことは、細部までくっきりと覚えている。はじめての、彼と二人きりの夜。この幸せは、永遠に続くのだと信じていた。  彼と知りあったのは、かなり遅めの新入社員歓迎の飲み会だ。会社のみんなと行った居酒屋で、働いていたのが彼だった。向こうから声をかけてきた。先輩に『サボってんじゃねえっ』って怒鳴られながら、箸袋《はしぶくろ》の裏に電話番号をメモしていった。  つきあいはじめて一カ月目。給料全部つぎこんだって、そう言って、ここに連れてきてくれた。  次の日から、彼は、彼女のアパートにころがりこんだ。  今までの恋は、全部|嘘《うそ》だったって思った。このひとが本物なんだ、今度こそは幸せになれるんだ。そう信じて、それからの時をすごしてきた。  ささいなすれちがいは、いくつかあったけれど、ほんの二週間前、この部屋を予約したときは、こんなことになるなんて考えもしていなかった。  たった一人で、この部屋にいなくてはならないなんて。  頬を、涙がしたたり落ちた。  あのことをうちあけたのは、二十日前。 『お前はうっとうしいんだよ。いちいちべったりはりついてきてさ。そんなふうに全体重かけられたら、息苦しくてやってらんないんだよ。いちいち全部、なんでも俺《おれ》に相談するこたぁないんだよ。……まあさ、このことは相談してくんなきゃ困るけど……俺の答えくらいわかってるだろ? 子供なんて持てるかよ、俺はこれからトップに昇りつめる男なんだぜ?』  どうして、彼がそんなことを言うのかわからなかった。自分は、彼に尽くしているだけなのに。彼の理想をかなえてあげたいのに。  なんとかしようと思った。高卒で、小さな商事会社の事務なんてやってる身分にはきついけど、もう一度、このホテルに来ようと考えた。思い出の部屋で、ゆっくり話しあえば、きっと彼は……。  けれど、その願いは裏切られた。  一週間前に、彼はいなくなってしまったのだ。  彼女が、病院から帰ってくると、彼は姿を消していた。  教えられた実家の電話番号は、すでに使われていないものだった。勤め先のはずの居酒屋に行ってみたら、もう三週間も前にやめていた。誰もが、彼のことを悪く言った。  そして、よく考えてみると、彼女は彼の友人を誰一人知らなかったのだった。  後に残されたのは、五十万円の借金。  バンドのために、ライブを開くために必要だと言われて、サラ金で借りたのだ。  彼の演奏は、聞いたことがない。ドラムだから、アパートで聞かせられないと彼は言っていた。ライブのときは最前列に来いといつも言っていた。  こうなってから、ようやく彼女は気がついた。  バンドのメンバーにも会ったことがない。デモテープすら聞いたことがない。  そして、すべてをあきらめて、六辻妙子はこのホテルにやってきたのだ。  綺麗《きれい》な建物だった。広くて明るいロビーは、海の生き物をモチーフにした装飾でいろどられ、幸せそうなカップルや家族連れが往き来している。  夕方にチェックインしてからずっと、ベッドに座って海を見ていた。  太陽が沈み、海が闇色に染まってからもずっと。  日付が変わる時刻になって、ようやく立ちあがって。  彼女は、こうして窓辺に立った。  そして、海を見つめていた。  あのときも、海を見ていたのだ。けれど、今と違うのは、彼の腕が背中から腰に回されていたこと。 「そろそろ死ななきゃ」  彼女は、そう呟《つぶや》いた。 「あの子、寂しがっているものね」  涙は、ひとすじ流れただけだった。流れるべき涙は、氷になってしまっている。 「行ってあげなきゃ」  そう口にしながら、彼女は動かなかった。  四カ月前のあのとき、もう確信していたのだ。自分の中に、命が宿ったことを。その直感は当たっていた。  でも、もういない。  名前も決めていたのに。 「……おなか……殴るなんて……ひどいよね……」  彼女の膝《ひざ》が砕けた。ずるずるとすべり落ちて、床に座りこんでしまう。膝をかかえこんで、顔をうずめる。  そのままの姿勢で、しばらくの時間がすぎた。  波の音だけが、聞こえていた。ふだんなら、こんな夜遅くでもいくらかは車の出入りもある。  ホテルだから人の気配もあるはずだ。  それなのに、波の音だけ。  六辻妙子の肩がぴくりと動いた。いやいやをするように、頭がほんのわずか動く。  のろのろとあがった両手が、彼女の耳を押さえた。  かすかな声が、くちびるから洩《も》れる。 「いや、聞きたくない。赤ちゃんの泣き声」  けれど、聞こえているのは波の音だけだ。 「いや、いや、いや。聞かせないで。あたしの子じゃない……ない、のに?」  妙子が、がばっと顔をあげた。そして海を見つめる。 「それとも……。呼んでるの、あたしを?」  彼女は窓ガラスにすがるように、よろめきながら立ちあがった。  そして、海を見つめた。暗い、暗い海だ。  すべての命が生まれてきた場所を、彼女は見つめていた。あのとき、ぬくもりの中で海は輝いて見えた。そこから、命がやってくることを信じて、彼女は赤ん坊の名を決めていた。 「海人《うみと》……いるの?」  彼女の目が、大きく見開かれていた。その瞳《ひとみ》には、黒い海が映っている。それだけ。闇《やみ》の澱《よど》みだけが、たたえられている。 「聞こえるよ……呼んでいるの」  くちびるをほとんど動かさずに、彼女は言った。  海は波の音だけをかなでている。鼓動にも似たその昔は、今にも消え去りそうにはかない。 「お前の泣き声……海から聞こえる。聞こえるよ。いるの? いるのね?」  妙子のくちびるがわなないた。右の瞳は海辺を、左の目は隠された水平線を見つめて、そして彼女の手が窓の取っ手にかかった。  音もなく、窓が開く。妙子は、そのわずかな時間さえ待てなかった。飛ぶような勢いでベランダに走り出ていた。  波の音は、外に出てもかすかなままだ。  体が、手すりにどんとぶつかる。上半身がつんのめって空中に泳ぐ。ころがり落ちそうになったことなど、彼女は意識してもいなかっただろう。せいいっぱいに首を伸ばして、目はきょろきょろと忙《せわ》しく動いた。 「どこ……どこ……ああ、ああああああ」  大きく開かれた口は、それ以上の声をあげられずに、ただ震えた。  少し離れた、暗い海面に向かって手をさしのべる。  そこに赤ん坊がいた。  波間に浮かんでいる。大きな頭、しっかりと握られた小さな拳《こぶし》。腰のまわりに巻きつけられた粗末な布以外は何も身につけていない。  赤ん坊は、全身がぐっしょりと濡《ぬ》れていた。まるで、たった今水中からあらわれたばかりのように。暗い闇に閉ざされた子宮から、産み落とされたばかりのように。 「泣いてる。あたしの……」  数十メートル離れた闇の中の赤ん坊が、彼女には、はっきりと見えていた。見えるはずなど、ないのに。 「赤ちゃん! あたしの赤ちゃん! 生きてたのね。もう離さない! おいで、おいで」  思い切り身をのりだして……。  彼女の体が、ずるりとすべった。次の瞬間、六辻妙子は宙を泳いでいた。 [#改ページ]  2 強敵出現 「もう十月だっていうのに、なんでみんな、海辺に来たがるかね」  と、助手席の少女が呟いた。  年の頃なら十七、八。よく日に灼《や》けた肌。おへそが見えていて、いかにも流行の格好をしている。ちょっと年を喰った相手なら、少しけばけばしいと感じるだろう。  それなのに、台詞《せりふ》はこれだ。口調にも、服装に似合った軽薄さはあまりない。年寄りじみた雰囲気だって、あるわけじゃないが。  元気な子供が、少し気取ってみせているような、そんなイメージ。 「季節は関係ないんだよ、こーゆーのは」  そう答えたのは、運転席の青年である。筋肉質の体に、ととのった顔だち。  ちなみに、バックウインドウには初心者マーク。 「泳ごうってんじゃない。雰囲気を味わいにくるんだから」  青年は、そう言葉を続けた。 「かなたも、あのでっかいキラキラした橋を見て、うっとりと俺《おれ》の胸に頭をのっけてくるくらいできない? まわり中そうなんだから。変に思われるぜ?」  少女の名は、井神《いかみ》かなたと言う。 「馬鹿馬鹿しい。やっぱり、あたしが来てよかったわ。摩耶《まや》ちゃんじゃあ、すっかり言いくるめられてそうだもん」  彼女は、青年の言葉に、手をひらひら動かして答えた。摩耶というのは、友人の名前だろう。  足を組み替えて、彼の反対側、車の窓によりかかる。そのとき、短いスカートが少しまくれて、健康的なはりのある太ももがつけねまで見えた。  台詞とは裏腹に、その光景に注意をそらされることもなく、青年は鋭い視線をあたりにそそいでいる。 「レインボーブリッジっていやあ、さかりはすぎたっつっても、まだまだ効果高いと思ってたんだけどな」 「隣に座ってんのが流《りゅう》くんじゃなくて、それから、どこかのぶちキレちゃった同類を待ち伏せしてんじゃなきゃ、そういう気分にもなるけどさぁ」  そう言って、少女はまた足を組み替えた。青年——水波《みなみ》流は見ていない。かなたの桃色リップの口もとに、ほんのちらりと不満げな表情が浮かんで、すぐに消える。  東京、ベイエリア。お台場《だいば》公園のすぐ近く。  あたりには、ずらりと車が並んでいる。まるで駐車場だ。違うのは、どれにも人間が乗ったままだということ。それも、きっちりと男女が一組ずつ。 「どうしよう? このままじゃ、ラチがあかない気がするよね」  かなたは、流の袖《そで》をつまんでつんつんと引っ張った。秋風はめっきり冷たいというのに、彼はまだ半袖だ。 「飽きただけじゃないの、お姫さま」  にやりと笑って、流は車をおりた。すばやく反対側にまわって、かなたのドアを開く。 「へえ、あたしでも、こういう扱いしてくれるんだ?」  大きな瞳をくるりと回して、かなたは言った。 「演技、演技。よそさまにまぎれなきゃいけないだろ。せっかく、そんなのに化けてんだしさ」  とりあえず、腕など組んで、二人は歩き出した。顔をよせあって、はた目から見れば仲むつまじい若いカップルだ。  しかし、その会話の中身は、かなりおかしなしろものだった。 「やっぱりイタズラかなぁ」 「そいつは、まだわかんないぜ。まだ夜の十一時。このあたりから人気がなくなるのは、まだまだ先の話だ」 「わかってるって。流くんこそ、見張ってるふりして、このへんノゾくのに気をとられないでよね」  そう言いながら、かなたは携帯電話をおさめたバッグを弄《もてあそ》んでいる。ひとさし指が、神経質そうにバッグの止め金をとんとんと叩《たた》いていた。  気楽そうに見えるが、緊張しているのだ。 『海辺の公園で、人間が殺される』  そんな知らせが、彼女たちのたまり場であるBAR <うさぎの穴> に届けられたのは、今日の夕方だった。  ビルそのものの入り口に、封筒がはりつけられていたのを、やってきた常連のひとり——聖良《せいら》が見つけたのである。  これが並みの人間のところに届けられたものなら、警察が呼ばれる。けれど、彼らはそうしなかった。そんなことをして、あれこれ詮索されるわけにはいかない。かといって、この知らせをほうっておくこともできなかった。なぜなら、彼女たちは人間ではなかったからだ。  おそらくは、この手紙の主と、引き起こされる事件にかかわっているのも、かなたや流たちと同類のはずだった。「誰か」や「ひと」ではなく、「人間」という表現を使っていることに、それがあらわれている。  結局、 <うさぎの穴> に居合わせた何人かが、手分けしてそれらしい場所を見張ることにした。  おおよそは二人一組。まずいことに、常連の中でも古参、あるいは腕が立つと言われる面々は、それぞれの用事で不在だった。 「正面からの戦いで、気後れさえしなきゃ、俺だって、未亜子《みあこ》さんにそうひけはとらないんだぜ」  流は、 <うさぎの穴> の面々中、最強だと囁《ささや》かれる女性の名を出して、にやりと笑った。遠い街灯の明かりだけでも、彼の白い歯を光らせるには充分だ。不思議とほっとするような笑顔だった。 『こいつの彼女たちって、みんな、これに騙《だま》されてるんだろうなぁ……ま、いいか、たまには騙されてあげても』  かなたが、バッグの止め金から手を離して、軽く流の肘《ひじ》に触れた。 「気後れねぇ……やっぱり美人相手はやりにくい?」  かなたは、腰より長い黒髪の美女の容貌《ようぼう》を思い浮かべながら言った。目の前に広がる夜の海は、彼女とよく似ているなと考えながら。 「まあ、なんというか、大人の色気っていうか……いや、そんなことだけじゃないんだよな。あのひと、神秘的っていうかさ、何考えてんのか読み切れないとこあるじゃん? そのへんの奥深さが」  困ったような顔つきで、流は言葉をつなげた。自分の感じていることを充分に表現できないもどかしさが表情にあらわれている。 「そりゃ、流くんが未熟者だからよ。八環《やたまき》さんを見習いなさい」 「あのひとだって、時々ぼやいてんだぜ、女は難しい、特に未亜子さんはって」  八環|秀志《ひでし》は、九鬼《くき》未亜子の恋人だと言われている。公言しているわけでも、べったりくっついたそぶりを見せるわけでもないので、みんなが勝手にそう考えているだけなのかもしれないが。 「今日は、どうしたの、未亜子さん?」  かなたの問いに、流は小さく首をかしげた。 「お通夜だってよ。仕事先のクラブのオーナーが交通事故かなんかで」  未亜子は、ナイトクラブやレストランで歌う歌手として生計を立てている。実際のところ、働かなくても暮らしていけるだけのたくわえはあるのだが。  話しているうちに、流とかなたは海辺までやってきていた。  海辺と言っても、浜があるわけではない。波打ちぎわに行けるわけではないのだ。  コンクリートでかためられ、化粧タイルで飾られた岸壁である。美しく塗られた鉄柵《てつさく》によりかかって、それでもかろうじてロマンチックな気分にはなれる。  黒い海に、きらめくブリッジの輝きが映っている。  それが、ときおりまたたくのは波のせいだろうか。  輝く宝石のネックレスのように連なった光が、うねりに隠されてとぎれる。紐《ひも》がひきちぎれて、床にころがる真珠のように飛びちった。 「ちょっと、流くん。この手は何」  かなたは、肩にまわされた手の甲をおもいきりつねりあげた。容赦なしである。 「演技だよ、演技。あたりのカップルにまぎれなきゃ」  顔をしかめながら、息がかかるほど耳もとに近づいて流は言った。 「どこに、カップルがいるって?」  体をひねってするりと抜け出しながら、かなたは言った。  あたりに人影はなかった。 「なんだ? 誰もいない?」  流の声が、かすかにこわばっている。 「そんなはずないぜ、この時間帯に、ここに人がいなくなるなんて。そんなはずない」  流が白い歯を見せた。くちびるは、笑いの形につりあがっている。けれど、歯は、隙間《すきま》なくしっかりと喰いしばられていた。  彼は、鉄柵を離れて数歩進みでた。あたりを見回したが、人の気配はまるでない。かなたも、その横に並んだ。 「人払いの結界?」 「かもな」  かなたの言葉に、流は小さくうなずいた。一度はこめかみに浮かびかけた汗が、もう乾いている。戦いの準備は整っていた。 「だとしたら、あたしたちに効かなかったのは」  かなたも、みがまえていた。 「あたしたちが妖怪《ようかい》だから? それとも、あたしたちが獲物だからかな」  そして、そんな言葉を呟《つぶや》く。  妖怪、と呼ばれるものが、世界の影の部分に存在している。  それは、さまざまな�想い�から生まれてくるのだと言われていた。言っているのは、当の妖怪たちである。  その存在が人々に信じられることで、求められることで、恐れられることで、妖怪たちは生まれてくる。ときには、一人の強い想いが結晶することもある。  人知を越えた力を持つ、不思議な生き物。  それが妖怪である。  かつて、闇《やみ》の中から歩みでた彼らは、自分たちが異分子であることを知った。生きのびるため、彼らはもう一度闇に身をひそめることにした。いまだ人の手の届かない山野こそ、彼らの住処《すみか》だった。  現代《いま》、身を隠すべき闇は大都会にこそ豊富だ。妖怪たちは、姿を変えて人々にまぎれるすべを身につけ、人間たちにまじって暮らしはじめた。  そして、互いに助けあうための連絡網を作りあげ、ネットワークと名づけた。東京だけでも、十指に余る数のネットワークが存在する。  ときには、人間を苦しめる妖怪たちを、同じ妖怪である彼らがこらしめることもあった。  正義感や良心がそれを命じることもある。しかし、何よりも重要な動機は、自分たちが生きのびるためだ。  人間と共存できなければ、妖怪は滅びることになると、彼らは考えていた。  この二人も、そんなネットワークのひとつ、 <うさぎの穴> に所属する妖怪なのだ。  かなたが口にした『人払いの結界』というのも、一部の妖怪が使える不思議な力のひとつである。方法はさまざま——精神暗示や匂い《フェロモン》など——だが、ある特定の範囲に近づきたくない気分にさせるのだ。当人にそれと意識させることなく、人間を追い払うことができる。  見られたくないことをするのに、妖怪が正体を隠すために、しばしば使う手段である。  ただし、多くの場合、同じ妖怪には通じない。それに、使用者が望んだ相手だけは、効果をのぞくこともできるはずだ。 「すっかり、いなくなったな」  流が、快活さすら感じられる声で言った。余裕を取り戻している。 「もういらないみたいだから、もとの姿に戻るよ。じゃらじゃらがうるさいんだもん」  かなたが、アクセサリーに手を触れて言った。  流の返事を待たず、一瞬だけ目を閉じて、首をぶるんとふった。その揺れが頭頂部からつま先までくだってゆく。  姿がゆらぐ。揺れがおさまったとき、そこに立っていたのは、さっきまでよりも一回り小柄な、おかっぱ頭の少女だった。年齢は十四、五歳くらいだろうか。髪型のおかげで、さらに幼く見える。身につけているのはスタジャンにTシャツ。ショートパンツからすらりと伸びた足は俊敏そうだ。きらきら光る瞳《ひとみ》と、少し上を向いた鼻がいかにも元気をあふれさせている。  これが、かなたが普段使っている姿だ。本当の姿、というと少々語弊がある。 「おっといけない」  かなたの小さなお尻《しり》から、平たい尻尾《しつぽ》がぴょんと飛び出していた。軽くゆすると、それは消えた。  彼女の素性は化け狸。狸は化けると信じた人間の�想い�が生み出した、ふつうの動物である狸とはまた別の狸なのだ。そして、信じられている通りに、さまざまな姿に化けることができる。 「ねえ、どこから襲って来ると思う?」  大きな目をくるくると回しながら、かなたは問いかけた。面白がっている口調だ。これだけは化ける前後も同じままの、バッグをぐるぐるふりまわしていた。 「海からだ」  流が答えた。リラックスした姿勢は、どこからの攻撃にでも、即座に対応できるだろう。戦い馴《な》れしているのだ。 「えらく自信ありそうだね?」  かなたが小さく首をかしげる。 「もう、来てるからさ」 「えっ?」  かなたはあわててふりむいた。  真っ黒い海が、ゆっくりと上下している。  ぴしゃり、という音が聞こえた。  ぴしゃり、ともう一度。  濡《ぬ》れた何かを、固い場所に叩《たた》きつける音だ。それは、岸壁の真下から聞こえた。波が、陸にぶつかるあたりからだ。  でも、波が砕ける音ではない。海はおだやかだ。まるで、ねっとりと粘りついているかのように。  闇そのものが、液体になっているような海だ。  そこから、ぴしゃりという音が聞こえてくる。今度は、少し近づいていた。  ここからでは、何が音を立てているのかは見えない。  けれど、かなたも流も近づこうとはしなかった。のぞきこんだりしたら、その瞬間に水底へひきずりこまれるとわかっていたから。  ぴしゃりという音は、少しずつあがってくる。  あと少しだ……。  思った、その刹那《せつな》。 「なにっ」  巨大な影が、すでに空中におどりあがっていた。星空を覆い隠す、体長二メートルを越える魚影。くわっと開いた口は、流の胴体を一|噛《か》みで両断できそうなくらい大きかった。  だが、もちろん、噛み砕かれるのをおとなしく待っているような彼らではない。 「話しあいの余地はなさそうだなっ!」  叫ぶのと同時に、流の衣服が内側から破れていた。  長身の青年の姿はかき消えて、黄金色に輝く鱗《うろこ》に覆われた、全長五メートルあまりの龍《りゆう》の姿があらわれる。伝説にあらわれるものに比べればいささか小さいが、それをのぞけば東洋の龍そのものだ。  上空から襲いかかろうとした妖怪魚に、龍が真下からぶちかましを喰らわせた。柔らかい喉《のど》のあたりに角を突きこまれて、空を泳ぐ妖怪魚《ようかいぎよ》が大きくのたうった。  一旦《いったん》さがった龍は、一声|吠《ほ》えて、ふたたび妖怪魚に襲いかかった。  これが、流の本当の姿。母親は人間だが、彼の父は中国奥地に住む龍王なのだ。  龍の鉤爪《かぎづめ》の一撃を避けて、妖怪魚が突撃する。そいつはオニオコゼに似ていた。額には岩のようなコプがいくつも重なっている。  すさまじい勢いで、妖怪魚は龍めがけて、コブを叩きつけようとした。もちろん、その体ごと。  その動きは、予想外に早かった。そう、海からあらわれたときもそうだったではないか。こいつは、全身のバネを使って、爆発的な加速をかけることができるのだ。 「危ないっ」  かなたが叫んだときには、すでに終わっていた。  妖怪魚の動きが旋風なら、龍は閃光《せんこう》のごとく体をさばいてみせた。その長い体をくねらせて軽々とその突撃をよけたのだ。  妖怪魚は、地面に激突した。 「きゃっ」  衝撃音とともに、タイルとコンクリートの破片が飛び散る。かけらが、かなたのふとももをかすめる。血がにじんだ。  地面に、人間一人くらいはすっぽりと入るような大穴が開いている。だが、妖怪魚のほうは平然としていた。鱗一枚も、はげたようすはない。  妖怪魚がふたたび浮かびあがった。その、無表情な目が、かなたをじろりと見る。 「来るかっ、この」  かなたも睨《にら》み返す。  妖怪魚が、大きなひれをゆっくりとひとふりした。二つの大きな丸い目に、かなたの姿が映っている。何を考えているのか、まるっきりわからない。 「あたしと勝負しようっていうの? だったら」  じりりっと、かなたが拳をかまえる。 「あたし、逃げるからね」  くるっと、身をひるがえして走りだす。  妖怪魚が、きしゃああと吠えて追いかけた。 「そうはいかないつってるだろうが!」  そこに、頭上から龍が体当りをかけた。噛みつこうとする妖怪魚の、ナイフがびっしり生えたみたいな口を巧みに避けて、ぐるりと体に巻きつく。  妖怪魚が吠える。苦痛の叫びだ。それでもあきらめず、なんとか龍に噛みつこうとしている。  龍が、首を大きく曲げた。大きく開かれた妖怪魚の口の正面に、龍の頭がある。妖怪魚が、よだれをだらだらを垂らしながらその頭を砕こうとした。牙《きば》が噛みあわされる直前。  稲妻が、龍の口からほとばしった。  青白く輝く電撃が、妖怪魚を内側から焼きつくす。ほんの数秒で、料理は終わった。焦げた妖怪魚は香ばしくはなく、ただ静かに崩れさっただけだ。  黄金色の龍が静かに地面におりて、人間の形に戻る。 「早く服着てよね」  彼に背を向けて、かなたが言った。 「着替え、車に置いてあるからとってきてくんない?」  破れたシャツで、とりあえず腰まわりを隠しておいて、流はそう言った。 「しょうがないなぁ。……いっけない、もう人が戻ってきてる。とりあえず、車に」  かなたの言葉の途中で、流も歩き出していた。公園を歩く人影がひとつ、こちらに近づいてきている。妖怪魚が死んだことで、人払いの結界が解けたのかもしれない。  万一にそなえて、流の着替えは用意してあった。急に正体をあらわすはめにおちいって、服を破いてしまった経験は二度や三度ではきかない。 「ほら、早くしてよね」  かなたは、車のボンネットにひょいと腰掛けた。  トランクスをはき、ジーンズに足をつっこむ流に背を向けて、足をぶらぶらさせながら、口を開く。 「それにしても、あの魚、なんだったんだろうね。妖怪なのは間違いないけど、あまり頭はよさそうじゃなかったな」  普通の魚よりは頭が良かっただろうが、犬より劣っていたことも確かだ。 「俺《おれ》たちを狙《ねら》ってたみたいだったけど……気のせいかな」  流の言葉に、かなたは妖怪魚が崩れさったあたりを見た。かすかな黒い灰以外、何も残っていない。妖怪の体は、通常の生き物とは分子構造が異なっている。死ねば、崩壊して消えてしまうだけだ。  ジーンズをひきあげた流は、Tシャツを頭からかぶりながら言葉を続けた。 「しかし、あのようすじゃ、捕まえたって何も聞き出せなかっただろうし……だな」 「何も流くんに文句言おうってわけじゃないわよ……でも、あたしたちが狙われるなんておかしくない? 理由がないじゃない」  かなたは、言葉の途中でくるりとふりむいた。同時に、口調もどこか冗談めかしたものに変わっている。  無理が感じられたけど。 「現実ってもんを見つめよーぜ、かなた。こりゃあ、どう考えたって、俺たちをおびきだそうとした罠《わな》さ」 「けど……なんで」  かなたが頬《ほお》をふくらませた。怒ることで、今感じている不安をごまかそうとしているのだろう。 「何言ってんだい。これまで、いろんな連中とぶつかってきたじゃないか。逆恨みするやつがいたって不思議はないさ」  流も、つとめて軽い口調で言おうとした。かなたが彼のほうをふりむいて、小さく笑った。 「そうだね。そういうこともあるかもしんないね……ちょっとヤな気分になっちゃうけど」  かなたたち、 <うさぎの穴> に集まる妖怪たちは、人々を苦しめる妖怪たちと戦ってきた。彼ら以外に、それをできるものがいなかったからだ。  できるかぎりは説得し、改心させて仲間にくわえてきたけれど、どうしようもなく滅ぼさねばならなかった妖怪も少なくない。 「とにかく、あの魚がただの手先だったのは間違いないからな。これから気をつけないと」  服を着終わった流は、手ぐしで乱れた髪を撫《な》でつけた。ここまでの一連が、いちいち絵になっているあたりが、さすが一週間に八回デートする男と言われるくらいのことはある。もっとも、今は誰もそれを観賞していなかったが。 「あ、いけないっ!」  かなたがぴょんと地面に飛び降りた。 「他のみんな、襲われてるかもしれない。連絡しないと」  かなたと流のコンビ以外にも、数人の仲間が見回りに歩いているはずだ。彼らにも警告するなり、しなければならない。かなたは、携帯電話をおさめたバッグに手を入れた。 「……と」  その動きが、唐突に止まった。かなたの瞳《ひとみ》は流の背後を見ている。  彼も、その視線を追いかけた。 「やあ、こんばんは」  快活な声の挨拶《あいさつ》が自然に出てきた。 「女なら、なんでもそれか、あんたは」  かなたが小さな声で呟《つぶや》いた。  先程の人影が、いつの間にか近づいてきていたのだ。じっと静かに、流の背後に立ち止まっていた。  流の挨拶に、小さな会釈を返してくる。  女性である。ふわりとした、白っぽい地味なニットの上下。いかにも平凡な家庭の若い主婦が選びそうな感じのものだ。  うつむいている。ばさりと垂れた前髪に隠されて顔はよくわからない。髪は、肩の長さで切りそろえられている。きちんとしたところでカットしたのではないのだろう。ずいぶん、ぎざぎざだ。前髪も後ろ髪も、同じくらいの長さのようだ。手も足も細くて、いささか華奢《きやしや》すぎる印象の女性だった。まだ、それほどの年ではないだろうが、どことなく疲れきったような雰囲気をただよわせている。  ただ、かなたが『なんでも』と言ったのは容姿や雰囲気のことをさしてではなかった。  彼女は、赤ん坊を抱いていたのだ。  いまどき古風な白いおくるみを、大事そうにかかえていた。 「あのう、何か?」  かなたが、そう声をかけた。女性が、立ち去る気配を見せないからだ。  自分たちのやりとりを聞かれてはいないだろうが、これから下手なことを言えば聞かれてしまうだろう。 「誰もいませんね」  女性は、そう口にした。低いかすれた声で、少し震えているようだった。そういえば、何か怯《おび》えているようなようすで背を丸めている。 『ああ、そうか。雰囲気が変だから……』  怖くなって、他人のいるところに近づいてきたのだろう。かなたは、彼女に同情を感じた。 「そうですね、みんな、どこにいったのかな。風が冷たいせいかもしれないな」  流が、軽い口調でそう言った。 「風のせいじゃないよ」  そう言ったのが、その女性だと、かなたは思った。声が違っていることに気がつくまで、たっぷり二秒ほどかかった。  そして、声がおくるみの奥から聞こえたことを、事実だと自分に納得させるまでにもう一秒。  あわせて三秒。  それだけあれば、おくるみの中の存在には充分だったのだ。 「がはっ!」  流が血を吐いた。 「なに? なんなのっ!?」  何が起きたのか、かなたにはわからなかった。気がつくと、流ががっくりとひざをつき、腹を押さえている。  そして、彼の前に立っている女が抱いた白いおくるみに、点々と黒い染みが飛び散っていた。  充分な明かりがあれば、その染みが赤い色をしていることがはっきりとわかっただろう。  明かりがなくても、見えたものもある。  おくるみの中から伸ばされている、小さな拳《こぶし》。真っ黒に血で染められた、もみじのように小さな、あどけない手。 「いい、パンチ、だぜ。この、やろう」  途切《とぎ》れ途切れに、流が言った。言葉の最後に、大きな血のかたまりを吐いた。かなたには、目にとらえることもできないようなスピードで、流の腹部に一撃が叩《たた》きこまれたのだ。 「フナシトギをやっつけたから、もうちょっとやるかと思ったんだけどね。つまらない男だ。この程度で、あいつに近づこうなんて一万年早いって」  おくるみの奥から聞こえてきたのは、幼い子供のような高い声だった。だから、さっきほんのわずか、この女性の声かと思ったのだ。  けれど、口調は子供のものでも女性のそれでもなかった。  男だ。少年でも青年でもない。「男」の響き。  かなたは、悲鳴を押し殺した。流が立ちあがろうとしている。だったら、自分には何ができる? 彼が勝てない相手に向かっていっても無駄だろう。  どうすればいい?  彼女が何も思いつけないうちに、事態は変化した。 「このっ」  ようやく膝《ひざ》を伸ばした流が、拳をふりあげたのだ。けれど、それを叩きこむことはできなかった。  女性が、おくるみをぎゅっと抱きかかえ、自分の体でかばったのだ。もしかすると、彼女も妖怪《ようかい》なのかもしれない。邪悪な、敵なのかもしれない。  だが、流は躊躇《ちゅうちょ》した。  その一瞬に勝負は決まっていたのだ。  おくるみの中から、闇《やみ》がほとばしった。かなたには、今度も何が起きたのか見えなかった。ただ、倒れる流だけが見えた。背中に、彼自身の大きな拳でもすっぽり入りそうな穴を開けられて、倒れる彼だけが。  あそこは、逆鱗《げきりん》があったはずの場所だ。龍《りゅう》一族の急所。以前、うっかり触ってしまって、大暴れさせてしまったことがある。激痛と不快感が、龍たちを狂わせるのだ。そこをえぐられれば、いかに強靱《きょうじん》な龍族といえど命にかかわる。  真下に、心臓があるのだ。  流の足もとに落ちている、あの肉塊はなんだろう〜  かなたには、何もできなかった。  ただ、倒れる流を見ていることしか。 「もう一度、言っとくよ。あいつに近づくな。他の男どもにも伝えといてよ。あいつは、おいらのものだって」  おくるみの中から、声が聞こえた。  倒れた流は、かすかに指先を勤かしている。かろうじて生きてはいるのだ。  けれど、かなたは流を助け起こすことができなかった。体がすくんで、どうにも動かなかったからだ。  次は自分の番なのだろうか、そう思うと、体の奥底から震えがのぼってきた。  だが、女も、おくるみの中身も、かなたには注意を払わなかった。まるで、そこにいないかのように、くるりと背を向けて悠然と立ち去っていく。  追いかけようとしたかなたの足が止まった。追ってどうなる。自分も倒されるだけだ。それに、足もとで呻《うめ》いている流をほうっていくわけにはいかない。 「誰か! 誰か来て! 急いで、お願い! ひどい怪我《けが》なの、流くんが、お願い!」  かなたは、携帯電話に向かって、ただそう叫んでいることしかできなかった。 [#改ページ]  3  <うさぎの穴> にて 「で、どうなんだ、流の容体は?」  くたびれたスーツに身をつつんだ男が言った。鷹《たか》のように鋭い風貌《ふうぼう》の、三十代なかばくらいの男である。  戦いの翌日の、 <うさぎの穴> である。深夜、もうすぐ翌日が翌々日になろうかという時刻だ。  今日も、何人かの常連たちが集まっている。いくらかのものたちは、昨日のできごとを調べるために出かけていた。 「命はね、なんとか助かるだろうって」  かなたは、深くうつむいてスツールに腰掛けている。小さな体が、もっと小さく見えた。 「でも、浅香《あさか》ちゃんがいてくれなかったら……」  かなたが、ぎゅっと自分の肩で自分の頬《ほお》をはさみこむ。  今井《いまい》浅香は、たまたま、 <うさぎの穴> を訪れていた、妖怪仲間のひとりだ。 <うさぎの穴> ネットワークに属しているわけではないが、みんな何度か世話になっている。  彼女は、薬局のマスコット人形の付喪神——長年使われた器物がこめられた�想い�で変化したもの——なのだ。浅香の力で、挟《えぐ》られた心臓をもとの血管につなぎあわせ、それから病院に運びこんだ。 「流のやつが半分人間だったのが、不幸中の幸いだったな」  男——八環《やたまき》が、煙草に火を点《つ》ける。ショートピースだ。  妖怪は、人間の通う病院には行けない。ごく一部の例外をのぞけば、その肉体の構造は、医師に検査されればすぐに異常なものだとわかってしまう。  だから、たよりにされるのは、浅香のような治癒能力を持った妖怪だ。  妖怪の場合、病院の世話になるようなことはそうそうは起こらない。ふつうの病気に罹《かか》ることはないし、たいていの怪我は寝て治す。  だから、もしも他人に世話をかけるようなことになるのなら、それはたいてい生死がかかった状況だ。病院に運んでいる暇などないような。そんな怪我を負っているときに運びこめば、人間でないことはすぐにばれてしまうだろう。  心臓を抉《えぐ》られて、生きている人間はいないからだ。  世の中には、医師と看護婦がすべて妖怪で構成された闇医院もあるというが、 <うさぎの穴> の者たちはコンタクトしたことがなかった。  個人的な友人で、自分の正体を知っている医師に頼るしかない。 「お母さんがね、流くんを生んだ病院なんだって」  かなたは、顔をあげて言った。頬は乾いているが、目が真っ赤だ。 「絶対安静だって言われてる。逆鱗をやられた傷は治りが遅いんだって、流くんのお母さんが」 「今は、摩耶《まや》ちゃんがついてくれとるよ。教授も一緒だ。万が一の護衛にね」  カウンターの中から、白い髭《ひげ》を垂れ下がらせた初老の男が言った。この <うさぎの穴> のマスターで、かなたの父親だ。 「安静にしておいたほうがいいのは、かなたちゃんもですわ」  そう言ったのは、つややかな髪をゆいあげた女性だった。髪の毛妖怪|毛羽毛現《けうけげん》の神谷《かみや》聖良《せいら》。 <うさぎの穴> の常連のひとりで、ふだんは美容院の経営者だ。 「一睡もしてないんでしょう? 食事だって」 「あたしだって、並みの体じゃないんだもん、平気だよ」  かなたはガッツポーズを作ってみせた。 「無理するな」  八環が、ぶっきらぼうな口調で言った。 「疲れきってると、いざってときに困ることになるぞ。どうせ、その赤ん坊とやらは、また襲ってくるだろうからな」 「そうですわね、あいつに手を出すなって言われても、流くんじゃあ心当たりがありすぎて誰だかわかりませんものね」  聖良が、なんとか雰囲気を明るくしようと、軽い口調で言った。 「あの赤ん坊が出てきたって、あたしにはどうせ何もできないもの」  かなたは、暗い声で呟《つぶや》いた。はらりと垂れさがった前髪が、目を隠している。 「悔しくて……眠ることなんてできない……何も、できなかったんだよ……」  膝《ひざ》の上に置かれた拳《こぶし》が、震えている。 「かなた……」  マスターが、困ったように娘の名を呼び、そして押し黙ってしまった。ただ、優しい目で娘を見つめている。彼ほど長く生きていれば、こんなときは自分で乗り越えるしかないことはわかっている。どう慰めたところで、心に響きはしない。  暖めたミルクを、静かに前に置いてやることだけが、彼にできることだった。 「ところでマスター、敵の正体に心当たりないですか? 赤ん坊の姿をした妖怪《ようかい》って、どんなのがいましたっけ?」  長髪で眼鏡をかけた若者が、そう問い掛けた。仲間のひとりで、蔦矢《つたや》という。  マスターは、彼の心遣い——かなたをそっとしておいてやろうという——に目で感謝しながら、髭をひねりあげた。 「そうだねぇ。赤ん坊の声で泣くとかいうのなら、けっこうな数がいるんだが」 「子泣きの爺《じい》さんとかな」  八環も言葉をはさんだ。意外と、しめっぽい雰囲気は苦手な男なのだ。ィ 「もう少し成長した姿、なんとか小僧っておっしゃる方も、たくさんいらっしゃいますわよね」  聖良も話題に参加する。客商売で身についたのか、やたらと言葉が丁寧だ。 「算盤《そろばん》小僧なら、大樹《だいき》くんですけどね」  蔦矢が言った。仲間のひとり、高徳《たかとく》大樹は算盤の付喪神だ。今では、コンピューターにとりつかれていた。なんだか話が逆じゃないのかと、よく言われていたりする。 「しかしな、赤ん坊そのものとなると……。たいていは化けているだけか、それとも何かとペアでも組んで……」  マスターの言葉が唐突に途切《とぎ》れた。  八環と目があう。  彼は灰皿で煙草を揉《も》み消すと立ちあがった。かたわらの蔦矢をのぞきこむ。 「この話は、もうみんなに伝わってるんだな」  真剣な表情で問いただす。 「ええ」  虚をつかれた顔つきで、蔦矢がうなずいた。 「電話とファックスと、それからパソコン通信で。大樹は、今ごろパソコン通信で他のネットワークと連絡とってるはずです」 「未亜子にも?」 「電話に出られなかったので、ファックスしておきましたけど。霧香《きりか》さんが、後で話してみるとか……」  八環は、きょとんとしている蔦矢には見向きもせず、くるりとふりむいて大股《おおまた》に歩きだした。 「待ちなさい」  マスターが、扉を半分開けかけた八環に声をかける。他の人物、他の言葉なら、彼は立ち止まらなかっただろう。  だが、マスターの言葉は、心底から彼と未亜子を案じているものだと、八環にはわかっていた。 「かなたを連れていくといい」  マスターは、そう口にした。  ふりかえった八環の顔で、鷹のような瞳《ひとみ》がぎらりと光った。刺すような光だ。 「そんな顔をするもんじゃない」  八環は、何も言わずに身をひるがえし、大きく音を立ててドアを閉じた。よどんでいた空気が、かきまわされる。 「かなた、ついていきなさい。彼が帰れと言ってもだ」  マスターの言葉を聞いても、かなたはまだ動かない。 「マスター、いったい……。その、こんなときですし。かなたちゃんは休ませてあげたほうが」 「いいんだ、蔦失くん」  かなたは、ついっと顔をあげた。そこには、いつもの元気そうな笑みが浮かんでいる。 「まかせといて。八環さんが無茶しないように、ちゃんと見張っててあげるから……なんなのか、よくわかんないけど」  とん、と床におりると、かなたは大股で走りだしていた。軽々とした動きは、いつドアを開けて、そして閉じたのかを感じさせない。 「……そのうち説明してあげよう。彼らのプライバシーに関することだからね」  うずうずした顔つきの聖良を、先手をうってたしなめておいてから、マスターは黙々と洗いものに戻った。  同じワイングラスを、彼はいつまでも磨き続けていた。 「はい、ごめんね」  かなたは、小さなお尻《しり》をとんと、高い助手席に落ち着けた。 「ここ、未亜子さんしか乗っけないとか、そんなことないよね?」  答えを返さないまま、八環は車を出した。かなり乱暴な発進だ。かなたは背もたれに後頭部をぶつけた。  中古の4WD、八環の愛車だ。 「渋滞に捕まらないといいね」 <うさぎの穴> の穴は渋谷《しぶや》にある。未亜子が住んでいるのは麻布《あざぶ》の小さなマンションだ。 「飛んでけばいちはん早いんだろうけど、そうもいかないもんね、やたさん」  八環は、ふだん山岳カメラマンとして生活している。山は、彼のふるさとだ。  彼の本当の姿は鴉天狗《からすてんぐ》。黒い翼を持ち、風とともに空を駆ける一族である。 「いやー、いつまでも落ちこんでてもしょうがないもんね、あたしも。摩耶ちゃんにさ、いつもいつもくよくよすんなってお説教しているあたしが、落ちこんでぐったりなんてしてちゃ、恥ずかしいもん」  かなたは、いきおいよくまくしたてた。そのあいだも、八環の車は、狭い隙間《すきま》に強引に割りこみ、パトカーに見つかれば停められること間違いなしのいきおいで走り続けている。 「ま、少し気分変えたほうがいいんだよ。だから、父さんもついてけって言ったと思うんだ。そのへんがわかってるから、八環さんもこっちのドア開けてくれてたんでしょ」  かなたが、こんこんと車のドアを叩《たた》く。八環は、無言のまま、車の窓を開けた。風がふきこんでくる。排気ガスのまじった、都会の臭い空気ではあるが、それでも風だ。  オールバックにしてある八環の髪をすべり、かなたのおかっぱ頭を乱して、風は通り抜けていく。それに吹きちぎられないように、かなたは声をはりあげた。 「そもそも、本気で引き離す気なら、あたしがついてこれたわけないもんね」  そう言って、にっと笑う。八環は正面を見つめたままだ。けれど真横にいるかなたの表情も見えているはずだった。 「わかったよ、かなた」  張り詰めていた表情が、ふっとゆるむ。 「好きにしろ」  煙草をくわえて、火をつけた。 「そんなに心配しなくたって平気だって。なにせ、未亜子さんは <うさぎの穴> 最強なんだから。流くんみたいにはなんないよ」  未亜子は、どう見ても強そうではない。神秘的な雰囲気をただよわせた、しなやかな美女だ。真っ白な肌と、真っ赤なくちびると、真っ黒な髪のコントラストを、かなたはいつもうらやましく思っていた。指は繊細で、いつも丁寧に赤いマニキュアで塗られている。  しかし、物理的な殴りあいになれば、正体をあらわした未亜子には誰もかなわないだろうと言われている。  かなたは、未亜子が実際に戦うところを見たことは三度しかない。彼女は、めったなことでは、戦うことはないからだ。  未亜子が声をあららげるところなどは、かなたは一度も見たことはない。怒ったときの表情も、未亜子はふだんとかわらない。  ただ、ほんの一瞬で、身長三メートルの屈強な人造人間——ある古典怪奇小説に登場する怪物が、存在を求める人間の願望で実体化したもの——が五体バラバラにされただけだ。長く伸びた、未亜子の爪《つめ》、そして刃物と化した彼女の髪によって。  その一件以来、かなたが未亜子に寄せる信頼は絶大なものになっている。 「まあ、自分の彼女が心配で駆けつける男の姿って複雑だよね。かっこいいようなみっともないような。蔦失くんあたりだと、若すぎてみっともないほうが勝つんだけど、八環さんくらい渋くなると、かっこいいほうが……と」  八環が、うんざりした顔で、ポケットからひっぱりだしたガムを投げてよこした。それが鼻にぶつかりそうになって、かなたは言葉を途切らせたのだ。かろうじて、空中で受け止めたが。 「さんきゅ」  そう言って、胸の真ん中にある大きなポケットにほうりこむ。今は開けない。 「それにさぁ、どうせ、あれって流くんがどっかでひっかけた女の子がらみだと思うよ。あいつが目をさましたら、やっぱり八環さんあたりに問い詰めてもらうのがいちばんだと思うんだけどな」  しいて軽口を叩くのは、流が無事だと信じたいからに他ならない。  もっとも、かなたが口にした中身については <うさぎの穴> の面々の共通認識だと言ってよかった。  八環も、そう思っていたのだ。さっき、あることに思い至るまでは。 「かなた……」  八環が、煙草を灰皿で揉《も》み消して口を開いた。かなたが、口を閉じて続きを待ち受ける。八環は、もう一本の煙草をとりだして、箱をくしゃりと握りつぶした。そのまま、火をつけずにくわえている。 「どうしたの? 言いかけて止めちゃうなんて、八環さんらしくないなぁ」  かなたは、ひょいと手を伸ばして、八環が握ったきりの空箱をつまんだ。少し引っ張ると、力がゆるんだ。 「ゴミ、どこに捨てるの?」  八環は、自然の中から生まれた妖怪《ようかい》だ。やたらと、そこらにゴミを捨てられる性格じゃないはずだと思って、かなたはそう尋ねた。 「床。まとめて掃除する」 「八環さんも男のひとだよねぇ」  空箱をひょいと抜き取ったかなたは、それを自分のショートパンツのポケットにおさめた。赤に変わりかけた信号を、八環の車がぎりぎりで駆け抜ける。 「かなた、お前、未亜子の正体は知ってるよな」 「あたりまえでしょうが」  未亜子の正体は濡《ぬ》れ女である。上半身は美女、下半身は大蛇。海辺にあらわれる妖怪である。 「どれだけ知ってる?」  かなたは、答える前に八環の表情をうかがった。彼女の人生経験で、読み取れることはたかが知れていた。ほとんど、ゼロだ。 「昔は人間を襲ってたこともあるんだってね。江戸時代より、もっと前だったって。何かあって、やめたんだ。お母さんと子供の仲を引き裂こうとするやつのこと、すごく怒るから、何かあったのかと思うけど……あたし、詮索《せんさく》しようとは思わないな。未亜子さんのこと、尊敬してるし」  かなたは、顔を窓の外に向けた。風景が流れていく。盛り場の輝きに、もう灯《あか》りの消された家々。 「そうだったな。かなたも母親と……」 「関係ないよ、それは」  かなたはそっけなく言った。彼女の母親が姿を消してから、もうずいぶんになる。父の松五郎《まつごろう》は、どうして彼女がいなくなったのか何も言おうとはしなかった。尋ねたい気持ちを、かなたはずっとこらえてきたのだ。 「母と、子か」  八環は、小さくそう呟《つぶや》いた。 「濡れ女ってのはな、伝承によれば、いつも赤ん坊を抱いているそうだ。海赤子って、そう呼ぶらしい」  かなたは、はっとして首の向きを戻した。八環は、まばたきもせず、鋭い瞳《ひとみ》で前を見つめている。 「赤ん坊だと思って油断しちゃ大変なことになる。ほんとの親玉は、海赤子のほうだって話もあるからな。強いらしい。牛鬼《うしおに》と組んでるって話もあったかな」 「八環さん、まさか……」  ここまで教えてもらえば、表情が変わらなくたって、彼が何を考えているのかくらい想像がついた。  赤ん坊。流を倒した奴。  あいつに近づくな。  もちろん、未亜子は女だ。それも、とびきりのいい女だ。独占したくなるのもうなずけるような。 「未亜子は出会ったときから、ずっと独りだった。あいつが <うさぎの穴> に来たときのこと、覚えてるか?」  あれは二十年ほど前だった。ふらりとあらわれて、そのまま居ついたのだ。もっとも、マスターや霧香、文子《ふみこ》といった古参メンバーとはずいぶん以前から知りあいだったらしい。それに、うわばみの有月《ありつき》成巳《なるみ》とも。 「うん……まあね」 「あいつも濡れ女だったからには、海赤子を抱えてたはずなんだがな」 「聞いたこと、ないの?」 「あたりまえだろうが」  今が信じられる相手なら、それでいい。というのが、妖怪たちの暗黙のルールだ。彼らは、さまざまな�想い�の中から生まれてくる。ときには、振り捨てたい�想い�もある。妖怪たちにとって、本人から言い出さないかぎり、過去に触れることはタブーなのだ。少なくとも、友人であり続けようとするなら。 「けど、こうなっちゃ、そうも言ってられん」 「……うん」  かなたはうなずいた。  それから、未亜子のマンションに着くまでは、二人とも黙ったままだった。  未亜子のマンションは、麻布《あざぶ》の閑静な住宅地にある。  それほど大きなものでもないし、とびきり高級というわけではない。明るい褐色の煉瓦《れんが》風に飾られた壁の、落ち着いた雰囲気の建物だ。  それぞれのフロアには、二つの部屋がある。それぞれ2LDKで、若い夫婦か中年の一人暮らしがほとんどだ。  最上階である五階だけは一部屋しかない。ほとんどぶち抜きの、広い部屋が文字どおり一つだけ。仕切られているのは、バスルームくらいだ。  そこの住人が、未亜子である。  じつは、このマンションの持ち主が、以前 <うさぎの穴> の面々、特に未亜子に救われたことのある人物なのだ。彼らの正体までは知らない。不思議な力を持った人たちだとだけ認識している。だから、特別なはからいで、彼女は格安でこの部屋を使わせてもらっていた。  ときどき、 <うさぎの穴> の女性陣や、かかわりあった人間の女性に一夜の宿が必要になると、ここが使われる。かなたも、以前に泊めてもらったことがあった。 「いないのかな」  チャイムを三度鳴らしても、未亜子は姿をあらわさなかった。火のついていない煙草をくわえたままで、八環がもう一度インターホンに手を伸ばす。 「仕事かもしれないよ?」  かなたは、ドアについたのぞき穴に目を近づけながら言った。それは内側から外を見るもので、逆からでは役に立たない。 「今日はなにもない。オーナーが亡くなったから、休業のはずだ。昨日、電話でそう聞いた」  インターホンの押しボタンに指をかけたままで、八環は呟いた。それを押しこむのを止めて、彼はスラックスの後ろポケットに手を伸ばした。キーホルダーを取り出す。  いちばん大きな鍵《かぎ》を、ドアの鍵穴にさしこんだ。  ぐるりと回して、ノブを掴《つか》んで引く。  何度もくりかえして、慣れた仕草だった。 『へえ』  心の中で呟きながら、かなたは八環の横をすりぬけ、先んじて部屋に入った。  以前来たときと、変わりはない。家具の少ない、きれいに整頓《せいとん》された部屋だ。  青い壁紙、青い絨毯《じゆうたん》、青い家具。身につけるものは赤ばかりなのに、部屋は育ずくめだ。壁には二枚ばかりの絵が飾ってある。海を舞台にした恋愛映画のポスターと、泳ぎ回る華麗な魚たちを描いたリトグラフ。 「考えてみると、あいつは海には行こうとしなかった。……部屋はこんななのにな」  かなたの頭のすぐ上で、八環が呟いた。 「なんで、今まで気づいてやれなかったのかな」  八環は、くわえたままでよれよれになってしまった煙草を、胸ポケットにおさめた。 「とにかく、今はいないみたいだね。待ってようか?」  かなたは、そういいながら、もうスニーカーを脱ぎはじめていた。 「……かなたは、そうしててくれ」  言うが早いか、八環はドアの外に出ていた。追いかけようとしたかなたの頭に、ふわりと彼のスーツがかぶせられる。それをはがしたら、足にワイシャツが絡みついてころびそうになった。  ドアの枠に掴《つか》まってころぶのを避けて、ワイシャツを拾いあげたときには、すでに八環は本来の姿に戻って、空に舞いあがっていた。  いつ必要になるともしれないから、彼の上着は簡単に脱ぎ捨てられるように工夫されているのだ。未亜子が縫い直しているという話も、かなたは聞いたことがあった。  背中から、大きな黒い羽を生やし、鴉《からす》の頭部を持った人影が夜空を飛んでゆく。  未亜子の行方を、どうにかして探すつもりなのだろう。 「んっ、もうっ」  かなたは、頬《ほお》をふくらませて、その姿を見送った。けれど、一瞬後には、その瞳がきらりと光っていた。部屋のかたすみに置かれた、大きな観葉植物が目に入ったのだ。 「ふっふっふ。あたしを置いていこうたって、そうはいかないんだから」  そして十数秒後。  鴉天狗の後を追って、一羽のやたら巨大な梟《ふくろう》が夜空に飛びあがっていた。かなたは化け狸とはいえ、まだ妖術《ようじゅつ》が未熟だ。変身には、葉っぱが一枚必要なのだった。狸はそうして化けるものだと信じられているから。 [#改ページ]  4 望み望まれぬ再会  そして、その頃。  立ち並んだ木々の奥、どこかで鈴虫が鳴いていた。  そのさらに向こうからは、かすかに往き来する車の音が聞こえてくる。  広い公園である。麻布から、車を使えば十分かからない、ある高貴な方を記念した公園だ。そこに、未亜子はいた。  かなり遅い時刻だが、いつもなら散歩する恋人たちもいるはずではある。しかし、今日は誰もいない。人影は見当たらない。  ほんのわずかな例外が未亜子、そして。 「どうするの?」  穏やかな声で、そう問いかけた霧香だった。  よく似ていながら、対照的な美女二人であった。  美しい長い黒髪、真っ白な肌、ただよわせている神秘的な雰囲気。これが共通しているもの。  未亜子には危険な香りがある。膝《ひざ》あたりまでのスリットが入った、ロングのタイトスカートは漆黒。闇《やみ》の中に溶けこんで、白いふくらはぎだけが浮かびあがっている。  触れた指を斬《き》り落としそうなそのあやうさが、彼女の鎧《よろい》。  霧香は、落ち着いた雰囲気のツーピース。秋物のハーフコートをはおり、頭にはシックな帽子。色は深い緑。まるであたりの木々を映しているかのようだ。触れればそのまま吸いこまれそうだけれど、けして真芯《ましん》にまで届くことはなくはじきかえされる。  彼女に見えないことはなにもないと言われている。霧香は、銅鏡の付喪神だ。おそらく <うさぎの穴> の誰よりも古くから、人間と妖怪のかかわりを見つめてきている。  その二人が、肩を並べて、ゆっくりと歩いていた。  この公園のなかば以上は、森と呼んでもさしつかえないくらいに木々に覆われている。そのあいだを縫う散歩路。ところどころに置かれているベンチにも、今は人影がない。どんなことを話しても、誰の耳にも届かない。 「どうするつもりなの、未亜子?」  霧香がもう一度そう言った。問いつめる口調ではない。  心配していた。友人の身を、心から案じている。  それに対して、未亜子が口にしたのはこんな言葉だった。 「昔は、どこもこんな風だったわね」 「そうね。人間がまだ少なかった頃は、話をするのにいちいち人目をはばかることもなかった。結界を張って人を近づけないようにする必要もなかったわ」  霧香は、ふと立ち止まって一本の樹を見上げた。この公園でも、もっとも長生きしているだろう、古木だ。まだ、生き生きと葉をしげらせている。 「長いわね、わたしも。もう、この樹よりお年寄り」  そう言って、霧香は樹に近づいて、たおやかな手で樹皮に触れた。樹を見つめる彼女のくちびるには、年若い姉妹を見つめる姉のような笑みが浮かんでいた。  笑みが、そのまま未亜子に向けられる。 「霧香、あなたは帰りたいと思う? 昔に、誰のことも配慮せずにすんだ、気楽な昔に?」  未亜子はかすかに首を傾けている。ささやかな風が彼女の髪を乱し、一筋はらりと泳いで、彼女の頬をくすぐった。 「思わないわ」  深い湖のような瞳を、ほんのわずか細めて、霧香は言った。 「すぎさってしまったものは愛《いと》しいけれど、それはすぎさったからかもしれない……そんな風にわりきれるようになったのは、ようやく最近のことだけれど」  霧香は、ゆっくりと未亜子に歩みよった。 「まだ、あなたにできなくてもあたりまえよ。私たちは妖怪。不老の存在、ということは成長もしないの。心は変わるわ。でも、それはとてもゆっくりでしかない」  霧香は、未亜子の頭をそっと抱きかかえた。柔らかな胸に、友を受け止めてやる。  未亜子の肩が、一度だけ震えた。 「あいつ、どうして帰ってきたのかしら。わたしが、やっと彼という人を見つけた今になって」  かすかな声で、そう呟《つぶや》きながら、未亜子は両手をそっと霧香の両肩に当てた。押しのける力は、まだこもらない。 「忘れられなければ、いつかよみがえる。それが、私たちのさだめ。帰ることもできず、そして行ってしまうこともないの」  霧香は、そうっと未亜子の髪を撫《な》でた。 「わたしが、忘れていればよかったのかもしれないわね」  未亜子は、自分の言葉を信じていない口調で言った。 「人間の女性もこうなのかしら。一度に二人の男のことを考えていられるのかしら」  背を丸め、うつむいた未亜子の髪は、霧香の足の甲に触れていた。霧香の髪も長いけれど、せいぜい腰までだ。 「未亜子……」  霧香は何も言ってやれなかった。特別な力を使わなくとも、心を見ることはできる。そして見えすぎれば、かける言葉はなくなるものだ。 「少し、歩きましょう」  未亜子は、ふわりと体を離した。化粧は、ひとすじたりとも崩れていない。  虫の声も静まっている。車の通る間隔も、かなりまばらになっていた。  この世のものならぬ二人の美女が、夜を流れるように歩いてゆく。木の葉ひとつ、乱れることもない。空気すらかしずいているように、みずから道を開いて余計な動きをしない。大地は柔らかい土がむきだしだ。湿った地面は、せめてもの思い出を望むけれど、足跡すら残らない。  やがて二人がさしかかったのは、小さな橋だった。  公園の森の奥から流れ出す、小川と呼ぶのもはばかられるような短い流れ。そこにかかった橋だ。 「水、ね」  未亜子は、低い手すりにそっと手を置いて立ち止まった。  水面には、何も映っていない。今夜は月もない。空はどんよりとした雲に覆われている。公園の奥には、街灯の光も、窓からもれる明かりも、ネオンのきらめきも届かない。  木々の隙間《すきま》を旅してきた、ほんのわずかな光は、水底まで進む元気を残していない。  だから水面は暗い。どれほど深いのか、まるで見えないほどに暗い。  未亜子は、昼間、この公園に来たことがあった。八環と一緒だった。木もれ陽の中を、さやさやと葉を鳴らす風を浴びて、二人で静かに歩いていた。あのときも何も言わなかったけれど、今とは沈黙の質が違っている。  どちらの時も、パートナーが、そして自分が、互いを愛《いと》しく思っている気持ちは言葉なしでも伝わってきた。ただ、今は、それだけではない。不安と重圧《プレッシャー》がある。  澄んだ空気の底に、よどんでいる暗闇のように。  明るい太陽の下でなら、この流れがごく浅いことは知っている。けれど、今はどうなのだろう。 『まるで……』  底などないように見える、そう未亜子は思った。 『あの夜の海も、同じようだった』  あいつを捨てた、あの夜の海。  ずっとうずいていた痛みが、急に鋭くなって心を刺した。昨日、流が倒されたことを知って、未亜子は気がついた。癒されたつもりだった痛みが、ずっと胸の奥底に残っていたことに。 『あの夜だけじゃなくて、あの夜までずっと、海はこんな風だった』  暗くて果てしない海。  いつの間にか自分が歌っていることに、未亜子は気がついた。 「ほらほら揺れる波の上  嬢や、暴れちゃいけないよ  ころりと海に落ちちゃうよ  大きく揺れる波の上  小さく揺れる波の上  ゆっくり静かな波の下  嬢や、泣いてはいけないよ  息が詰まって苦しいよ  深くて暗い波の下  深くて寒い波の下」  それは、懐かしい子守歌だった。  昔、よく歌ってやったものだ。  あいつにではなく、もうひとりの我が子に。そして、その娘が産んだ子にも。  あの娘の本当の母親が、いまわのきわに歌ってやった、あの歌だ。未亜子が、生まれてはじめて覚えた歌だった。  歌い終わったとき、彼女は独り呟くようにこう言った。 「わたしの手で決着をつけるわ。わたし、ひとりで」  未亜子の言葉が、暗い水面に吸いこまれていく。 「手伝えることは、あるのかしら?」  秀香は、静かにそう聞いた。 「みんなを守って。できることなら、何も知らせたくないの……この状況で無茶なのはわかっているけれど」 「知らせたくないのは、八環くんにじゃないの?」 「……わからないのよ。どうしたいのか。みんなに知られたくないと思っているのは確かなの。わたしが、本当はどんな女なのかを」  未亜子の口もとが泣き出しそうに。 「みんな受け入れてくれるわ。過去のことをとやかく言わない。今のあなたが、みんな大好きなんだから」  妖怪は、容易には変われない。だからこそ、変化を乗り越えてきた、今のそれぞれを大切にする。決して、後戻りはしないと知っているから。 「わかっている。わかっているけど、怖いの。情けないわね。今まで、たくさんの妖怪たちに、人間たちに偉そうにお説教してきたのに。いざ自分のことになると、こうなんだもの。かなたちゃんや摩耶ちゃんに見せたくないわ……。だから、決着がつくまでは……。あたしが、ここからいなくなれば、あいつも追いかけてくるでしょう。これ以上、みんなには迷惑かけずにすむはず」  それは甘いかもしれない。霧香はそう思ったが、あえて口にはしなかった。もしも、あいつが未亜子を追わないなら。  それなら、自分たちがケリをつけてやれるかもしれない。 「みんなには黙っていて欲しい。それはわかったわ。でも、八環くんは? 彼、あなたのことが……」 「大丈夫よ」  未亜子の声は笑っていた。笑いながら、震えていた。 「彼なら、大丈夫よ。わたしなんか必要ないわ。彼には借りをつくりたくないの」 「迷惑をかけたくないと、ちゃんとそう言いなさい」  霧香の言葉に、未亜子は答えない。 「……彼はきっと、わたしを嫌いになるわ。本当のことを知ったなら」 「未亜子」  霧香の言葉を、未亜子は髪をひとふりしてさえぎった。 「わかってる。そんなひとじゃないって、わかってる。でも、彼に重荷を背負ってもらうわけにはいかないわ、そうでしょう?」 「強情ね」  霧香が、ゆっくりと首を左右にふる。わがままな妹を見守る、姉のような仕草で。 「わたしの問題だから、わたしがなんとかしないと……流くんにも申し訳が立たないわ」  自分ひとりでかかえこむほうが、みんなを怒らせる、心配させるのだと、霧香はそう言ってやりたかった。けれど、口を開かない。だって、そんなこと、もう未亜子にだってわかっているのだから。  未亜子は、稀代《きたい》の意地っぱりなのだった。 「みんなには話さないと、ちゃんと約束して、そうすれば、霧香はそれを破れる性格じゃないわ」  未亜子の要求に、霧香はそっとため息をついた。 「私の口からは何も言わない、それは約束するわ」 「正直者ね、あいかわらず」  未亜子が、さらりと長い髪をかきあげた。 「そうでなければ、あなたと友達にはなれなかったわ。そうでしょう?」  二人の女が見つめあって、視線がぶつかりあう。先に目をそらしたのは、未亜子だった。 「みんなに話したほうがいいのかしら。でも……」  空をあおぐ、風を見つめる彼女の肩が、かすかに震えている。 「怖がらないで。大丈夫」  霧香の手が、もう一度伸びて。  触れる前に、止まった。 「未亜子」  緊張した響さで、呼びかける。未亜子もうなずいた。その目は乾いている。氷の輝きを、たたえている。 「下から?」  霧香が呟いた。それと同時に、二人は飛びのいた。流れの岸辺に。  間髪を入れず、どうんという爆発のような音をたてて、橋が吹き飛ばされた。吹きあがった水のしわざだ。一瞬のあいだだけ、浅い流れの底が見えていた。流れていた水が、天に向かって駆け登らされたのだ。さえぎるものすべてを押し流す勢いで。 「アマノボリ……」  霧香が呟いた。北日本海沿岸のある地方に伝わる妖怪《ようかい》である。海の水を吹きあげ、何もかも天に登らせるという。  雨が降った。空に舞いあがらされた水が戻ってきたのだ。  二人の美女が、ぐっしょりと濡《ぬ》れる。服が肌に張りついた。未亜子の豊かな肉体のラインがあらわになって……。  彼女の服が、内側から引き裂けた。  虹色の光が閃《ひらめ》く。  上流からの水で、干上がったところはすぐにまた沈んだ。けれど闇《やみ》色の水に覆われるよりも一瞬早く、鋭い鉤爪《かぎづめ》が何かを水底からすくいとっていた。なにものをも見逃さない鋭い視覚と、正確でかつ素速い動きのなせるわざだ。  未亜子が捕らえたのは、魚のような蛙のような、あるいは胎児のような生き物だった。手のひらの上に乗るくらいの、これがアマノボリだ。千石船も吹き飛ばしたという妖怪は、ほんの小さな、知性もほとんどない生き物だったのである。  捕らえられれば、もうなすすべがない。  未亜子は、すいっと体を伸ばして、アマノボリを四メートルほどの高さに張り出した枝の上に置いた。  アマノボリは、陸にあげられた魚と同じようにぴちぴちと跳ねるだけだ。水がなければ何もできないのである。  未亜子は、その真の姿をあらわにしていた。  上半身にほとんど変化はない。つややかだった髪がいささか乱れ、八重歯が鋭くなっている。  三十センチ以上伸びた鉤爪を無視することさえできれば、人間そのものだ。  相変わらず美しい。  下半身も、醜くはない。違った意味で美しいといっていいはずだ。虹色の鱗《うろこ》におおわれた、しなやかな蛇体。それを伸ばせば、彼女は四メートルの高さまで手を届かせることができる。 「出てきなさい、いるんでしょう」  その高みから、未亜子は周囲を見回した。声がかすかに震えている。瞳《ひとみ》がゆらめいている。期待に? 不安に? 恐怖に? そのどれともつかぬ感情に。  ざわり、と波がうごめく音がした。  流れは、すぐ先で池になっている。さしわたしが十メートルばかりの小さな池だ。水草が浮かび、昼間ならあひるが泳いでいる。  その池も、今はやはり闇の色をしていた。  光のない夜空を映した水面が、ざわめいている。  ざわめきの中心は、未亜子と反対側の岸辺。そこに映った、白い人影だ。  白っぽいニットの上下と、腕の中にかかえた真っ白なおくるみ。その影から水が逃げだそうとしているかのように、波がさざめいていた。  影からで、すら。 「有栖川《ありすがわ》公園?」  空中に吹き上げられた水柱を八環《やたまき》の目は、はっきりと捉《と》らえていた。  人間たちも気づかなかったわけではないだろう。けれど、誰もわざわざその正体を確かめようとは考えなかった。  考えることが、できないようにされていたのだ。  けれど、妖怪である八環とかなたには、そんな力は作用をおよぼしていなかった。  二人の、それぞれの翼が空気を打つ。  鴉天狗《からすてんぐ》と、狸の化けた梟《ふくろう》が、あやしき水怪の待つ森へと急ぐ。 「迎えにきたよ」  女に抱かれたまま、赤ん坊が言った。  未亜子は答えない。ただ、じっと声の主を見据えている。霧香も動かない。友を見守っている。 「目がさめたのはしばらく前だったんだけど、今の時代のことを勉強するのにしばらくかかっちゃった。喋《しゃべ》り方も、今風になってるだろう、おいら?」  おくるみの中身は、心の底から楽しげなようすだった。 「いろいろ調べてるうちに友達もできたし。探すのも手伝ってくれた。にぎやかに遊べるよ。また昔通りにやろうよ。あのことを気にしてるのなら、おいらはもう平気だからさ」  その声は、母親に甘える子供か、それとも拗《す》ねた恋人をなだめる若者を思わせた。ただ、そのどちらにもない、ねばついたものも感じられる。 「できない……」  未亜子は、かすかな声で呟《つぶや》いた。自分だけにしか届かない声で。  彼女は、意を決したようにくりかえした。 「できない」 「何ができないの?」  おくるみの中身はそう言った。尋ねたわけではないようだ。彼は、すぐに言葉を続けた。 「できなくなんかないよ。大丈夫。また、おいらが指図してやるから。おいらの言うとおりにしてれば楽しく暮らせるんだ。人間の美味《おい》しい生血をすすって、きれいな海の底で気ままな暮らしをしようよ」 「戻らない」  未亜子の声が、震えていた。 「もう戻らない、あの闇の中には」 「駄目だよ、わがままはおいらが言うもんじゃないか。子供の仕事、とっちゃだめだよ、母ちゃん」  そう呼びかけられた途端《とたん》、未亜子があとずさった。まるで、何かに怯《おび》えたように。 「どうしたのさ、母ちゃん」 「だめよっ」  未亜子が悲鳴のような叫びをあげた。 「もう、そんな呼び方はしないで。近づかないで。もう……、もう一度、殺したくないから」  最後の一言は、とてつもなく冷静な声。 「できやしないくせに」  おくるみの中身は、きゃっきゃっと笑った。無垢《むく》な赤ん坊に似た、とてつもなく残忍な声で。 「殺せるくらいなら、そもそも生き返らないようにするだろ? そうだろ、母ちゃん。ずっと死んだままでいさせるにはどうすればいいのか知ってただろ? そうしなかったのは、おいらとヨリを戻したかったからだよ。おいらと離れられやしないよ。みんな信じてるんだ、濡れ女は海赤子を連れてるって。信じられてる通りにするのが、おいらたちの運命《さだめ》じゃないか」  他の女に抱かれたまま、海赤子は言った。 「でも、たまにはわがまま言いたくなるのもわかるから、いいよ、近づかないよ」  そう言いながら、おくるみから小さな手が伸びた。肩から手の先までが、未亜子の鉤爪と同じ程度の長さしかない腕だ。 「母ちゃんから、こっちに来なよ。おいでよ、おいでよ。もっぺん、おいらを抱いとくれ。もっぺん、おっぱい吸わせておくれ」  歌うように、海赤子が呼びかける。 「おいらを抱けば満ち足りるよ。そんなに怖い顔しなくてよくなるさ。二人で喰おうよ。最初は、この女でもいいよ。昔は、おいらが他の女に触られたりしたら、真っ赤になって怒ってたじゃないか、母ちゃん」  自分を抱いてくれている女に、海赤子はなんの思い入れもなさそうだった。女のほうも、なんの反応も見せない。ただのあやつり人形なのか、それとも……。 「人間よ、彼女。体は生きているわ。でも、心は死んでる……」  いぶかしげに、霧香が言った。彼女はあらゆる真実を映し出す鏡なのだ。  彼女の言葉は、未亜子の耳にしか届かなかったはずだった。海赤子は、楽しげに言葉を続けている。 「それとも、そのへんにいるバカ連中に義理でもあるのかい? 心配しなくていいって、ちょっと試してみたけど、たいしたことないから。うるさかったら、おいらが黙らせてあげる」 「それは、少し認識が甘いというものではないかしら」  さすがに霧香も、この言葉は腹にすえかねたらしい。濡《ぬ》れそぼったハーフコートを脱ぎながら、白いおくるみをひたと睨《にら》んでいる。 「無理しないほうがいいよ、お姉さん。あなた、そんなに強くないでしょ」 「確かに勝てるとは思わないけれど、でも、わたしは決して負けもしないわ。その人間の女性を盾にしようと思っているなら、無駄だわ」  霧香の声は、自信にあふれていた。 「勝てないときは負けなんだよ」  おくるみの中身が地獄につながる扉であるかのように、海赤子の声は不吉な響きを帯びている。  霧香は、それに何の反論もしなかった。ただ、静かに一歩だけ前に進みでただけだ。  おくるみのほうは動かない。けれど、水面の波紋が消えている。  静かなまま、空気に緊張が満ちていった。  高まり高まり、それがついにはじけようとした、そのとき。かすかな声が聞こえた。 「……やめて」  未亜子だ。霧香は、はっとした表情で友人をふりむいた。彼女が、誰に向けてその言葉を口にしたのかを確かめるために。  未亜子は、霧香を見ていた。  霧香は、問い返しはせず、ゆっくりと一歩さがった。  未亜子が進み出る。さらさらと鱗《うろこ》が鳴る。涙が、頬《ほお》をこぼれおちるような音。そして未亜子が池に入る。彼女を頂点にした、鋭角の波紋が黒い水面に広がってゆく。まっすぐ上体を伸ばしたままで、彼女は海赤子に向かって泳いでいった。 「まったく、母ちゃんは昔からのろくさしてるんだからなぁ」  海赤子がはしゃいだ声で言った。  音も立てずに、未亜子が岸辺にあがる。おくるみと、それを抱いた女をはるか頭上から彼女は見下ろしていた。 「母ちゃん?」  もう少しで自分を抱きしめられるというところで動きを止めてしまった未亜子に、海赤子がいぶかしげに声をかけた。  しゅんという小さな音が、聞こえた。  それは、夜が裂ける音。  未亜子の鉤爪《かぎづめ》が、おくるみに向けて一直線にふるわれた音だった。白い布が、ぱっくりと裂けている。  だが。  その鋭い刃は、海赤子には触れていない。海赤子自身はもちろん、それを抱いた女も一ミリたりと動いていないのに。 「どういうことだい? 今、おいらを殺すつもりだったね?」  けれど、海赤子はそう言った。冷たい、すべてを凍てつかせるような怒りをはらんだ声で。 「でも、できなかったねぇ」  そして、こう続けた。無邪気に甘える子供のような声で。 「だから言ったじゃないか。おいらと、また仲良くやろうよ。それとも、またおいらを殺すのかい? どうせ、ほんとに殺せやしないのは、わかってるだろ? また何百年かおいらが帰ってくるのを怖がり続けるのかい……」  今度の声は、からかいといたぶりに満ちていた。知っているのだ、海赤子は。未亜子が、彼にどんな感情を抱いているのかを。  少なくとも、よほどにぶくないかぎりは、今の未亜子の目を見ればわかるだろう。自分に対して一片の愛も抱いていないことが。ただ恐ろしく、ただわずらわしく、ただ嫌悪されていることが。  けれど、海赤子は自信たっぷりにこう言った。 「わかってるんだよ、おいらがいちばんね。母ちゃんのことをわかってるんだ。おいらのこと可哀《かわい》そうだと思ってるだろ? おいらを殺してしまったことで罪の意識を感じてるんだ。ほんとは、あんなことしたくなかったのに、ついかっとなってやっちゃった。おいらが罪を責めに来たって、そう思ってるから、そんな目でおいらを見る」 「わたしは……」  未亜子の顔がひきつった。喉《のど》が何か詰まったように、ふくれあがる。瞳《ひとみ》が揺れ動く。 「人間なんてつまらない奴らだってこと、もうわかったろ? 弱っちいだけだもん。母ちゃん、強いものが好きだろ。隠さなくていいよ。おいらがいちばん、母ちゃんのことはよくわかってるんだから。おいらが全部決めてあげるよ、また。責任とるの嫌いだもんな。何をしたのも、全部、おいらのせいにするといい。そのかわり、おいらの決めたとおりにするんだ。償いするには、それしかない」 「わたしは……わたしはっ!」  彼女は、ぶんっと鉤爪をふるった。風を巻き起こすほどの速度で。  けれど、じつはその一撃は最初のものより遅かったのだ。さきほどのものは見えなかった。空気が動く暇もないほどに早かった。  けれど、今度のは違っていた。おくるみを抱いていた女のスカートがはためく。風に押されるように、その体が宙に舞っていた。遅いぶんだけ、力がこめられていたのだ。  おくるみを抱いた女が、風に押されたようにふわりと飛んで、後方に着地する。武道の達人のような動きは、海赤子に与えられたものなのだろうか。 「わたしは、あなたを殺したことを後悔してないわ……していないの。あなたを腕に抱いていたときの重みも忘れたことはない……けれど」  顔をそらして、未亜子は言った。 「だったら戻って来いよ。母ちゃん……もういっぺんだけ言ってやる。うんってうなずけよ」海赤子が、いらだたしげな声で言った。 「おいらのもんだよな、お前は?」  と、海赤子が言ったときだった。 「未亜子っ! 大丈夫かっ」  声が聞こえてきたのは、そのときだった。  未亜子も、霧香も、そして海赤子も空を見た。声の聞こえてきた方角を。ただ、おくるみを抱いた女だけが、自分の腕の中を見つめたままでいる。  そして夜の空からは、黒い翼をはためかせて、八環がまっしぐらに急降下してくる。 「あいつかい……母ちゃんの新しい男は」  妖怪《ようかい》の背筋ですらぞっとさせるような声で、海赤子は言った。 「違う、違うわ。そうじゃない……」  未亜子の声がうわずっている。 「あの梟《ふくろう》……かなただわ」  霧香がそう言ったのは、未亜子に教えるつもりだったのか、それとも彼女にも動揺が伝染して、珍しくもうろたえてしまっていたからか。  鴉天狗《からすてんぐ》の後方から、一羽の梟が負けず劣らずの勢いで飛んでくる。 「女の……子供か」  憎々しげに、海赤子が呟《つぶや》いた。彼にも、変化を見破る眼力がそなわっているらしい。 「邪魔だな」  おくるみの中から小さな手が突き出される。それが、どれほどの力を秘めているのか未亜子だけが知っていた。 「だめぇ!」  無我夢中で、未亜子の体が動いていた。今までの二回のどちらより早く、どちらより力強く。  音すらせずに、海赤子の小さな腕が断ち切られていた。くるくると回って、ぼちゃんと音を立てて池に落ちる。  腕をふりぬいた姿勢のままで、未亜子は凍りついていた。その瞳は、もはや何も見ていない。  海赤子も動かない。  どちらかが先に動いたなら、残ったほうはあっさりと絶命させられていたはずだ。  けれど、どちらも動かなかった。  とてつもなく長い時間のようだったが、じつはほんの一瞬だったに違いない。上空の八環もかなたも、ほとんど移動していなかったのだから。  そして、海赤子は赤い血をまき散らしながら、こう叫んだ。 「そういうことかよっ! そいつのほうがいいんだな! 他の男どものほうがいいんだ。他の子供のほうが可愛《かわい》いんだ……教えてやる、教えてやるさ。おいらが、いちばんの男だってことを! 誰よりも強いことを!」 「待って!」  未亜子が悲鳴をあげたとき。  池が、爆発した。  正確には、爆発としか形容しようがない勢いで水しぶきをふきあげたのだ。しかも、それは  霧香の目ですらくらませる妖気を帯びていた。 「まさか、まだ仲間が?! 未亜子、気をつけて!」  無用のものだと知りつつ霧香は叫んでいた。 「…………」  一面が白く覆われて、水の壁の向こうから返答はなかった。  そして、池がふたたび静けさをとりもどしたとき、そのほとりには、人間の姿に戻った未亜子が、裸のままで茫然《ぼうぜん》と座りこんでいた。  そこに、黒と灰色、二組みの翼が、あわてて舞いおりてくる……。 [#改ページ]  5 闇のはらむもの 「昨夜はいかがでしたか? 彼女のようすは満足のゆくものでしたか?」  灰色のスーツに、地味なネクタイ、そしてきっちりと七・三に分けた髪。何の特徴もない、平凡な日本のサラリーマンが、膝《ひざ》まで海水に浸《つ》かって、そう訊《たず》ねた。  暗い闇《やみ》に閉ざされている、狭い空間だ。彼の声が、かすかに反響している。 「…………」  海赤子は、沈黙したきりだ。  今は、女に抱かれてはいない。水の中に浮かんでいる。  サラリーマンの鼻孔を、潮の香りがくすぐっている。 「どうやら、御不満のようでらっしゃる。ということは、このあいだ、お知らせしたとおりのごようすだったようですな。帰ることは承知なさらなかったでしょう?」  サラリーマンは、にこやかな営業スマイルを浮かべている。 「こないだも申しあげましたとおり、あの <うさぎの穴> とやらに集まる連中をなんとかなさらないことには、九鬼未亜子さんはあなたさまのもとには戻りませんよ」  かすかな、ひゅんという音が聞こえた。  どぷんと音を立てて、小さな肉塊が水の中に落ちる。  サラリーマンの胸に、ぽっかりと穴が開いていた。落ちたのは心臓。一瞬でえぐりだされたのだ。血は吹きださない。じんわりと青い液体がにじみ出ただけだ。  ひょいと身をかがめて、サラリーマンは自分の心臓を拾いあげた。穴の奥におさめて、傷口  の上をハンカチでひとなでする。それで、破れたスーツも元通りになった。 「あまり無茶をなさらないでください。お願いしますよ」  得意先からの苦情電話を受けるような口調で、サラリーマンは言った。いや、彼にとっては、これも、仕入れ先との値引き交渉と大差ないビジネスなのだ。 「体はともかく、スーツをもとに戻すのはそれなりに苦労するんです。まあ、どうせズボンのほうがこれですからいいんですが」  彼はため息をついた。  上司の許可を得ないかぎり、彼は死ねないのだ。巨大企業グループ、シャイアーテックスに仕える妖怪《ようかい》サラリーマン——しもべとしての忠実なあやつり人形を望む経営者たちの願望が生み出した存在は、会社が望むこと以外、なにもしない、なにもできないのだ。 「やかましいなぁ。次は首を落とすよ。知ってるんだぞ、首を切られると、あんたら死んじゃうんだろ」  海赤子は、拗《す》ねた子供のような調子で言った。 「いや、これは手厳しい。恐縮です」  サラリーマンは、ハンカチでぐるりと顔をぬぐった。しかし、その表情はいっこうにおそれいったようには見えない。 「それで、前回お会いしたときに御提案させていただいた件ですが、いかがなものでしょうか? あれが必要であることは、彼女に会われたことで、納得していただけたと思うのですが?」 「女を取り戻すのに、いちいち手伝いなんかいらないよ。こう見えても、一人前の男だからな」  ぷかぷかと浮かんだままで、海赤子は言った。その姿は、ごくふつうの赤ん坊にしか見えない。生後一年足らずというところか。 「もちろん、そうでしょうとも。しかし、窮鼠《きゅうそ》猫を噛《か》むのたとえもあります。九鬼未亜子さんは、たいそう魅力的ですからな。血迷った男どもが割りこんでくる可能性は高うございましょう。そいつらですよ、そいつら。うちにとっては不要な連中です。私どもが御紹介いたします方々が、邪魔する者を片付けてくれます」  妖怪サラリーマンは、今にも揉《も》み手でもはじめそうな調子である。 「自分がいるかぎり、身の回りにいるものが、近づく男が次々に殺されてゆくということになれば、彼女だってあきらめずにはいられますまい」  電話で投資を勧める営業マンの口調で、にこやかな笑みを浮かべて、妖怪サラリーマンは世にも物騒な提案を口にした。 「なんでなの?」  海赤子は、無邪気に聞こえる口調でそう尋ねた。その声は、幼い子供そのものだ。誰でも、油断をさそわれるだろう。もっとも、いくら幼い子供の声と言ったって、彼の見た目の年齢にはまだまだ不相応なのだが。 「なんで、そんなにおいらに親切にしてくれるのさ」  そう問い掛けられて、妖怪サラリーマンは、こほんと一つ咳払《せきばら》いをした。 「親切ではありませんよ。これはあくまでビジネスです。利害がからむビジネスだからこそ、信頼できるというものです」  サラリーマンは、内ポケットから禁煙ドロップをひとつとりだして、口にほうりこんだ。 「失礼しますよ、癖になっているものですから」 「そんなことは、どうでもいいんだよ。おいらの質問に答えなってば」  海赤子の声に、ふたたび剣呑《けんのん》な響きがまじりこむ。 「私たちが望んでいるのは <うさぎの穴> に集まる妖怪どもが無力化されることです。あそこと、もうひとつ <海賊の名誉亭> というバーを拠点にする妖怪ネットワークの連中をほうっておくと、何かと我々の今後の活動に支障が出そうなものですから。 <海賊> は別の者の担当ですのでね、 <うさぎの穴> のことだけ、私は心配しておればいいわけですが」 「お前ら…… <ザ・ビースト> か」  それは、世界中に広がる史上最大規模の妖怪ネットワークである。聖書の記述にある、世界の終末をもたらす <獣> が率いる、恐るべき邪悪な妖怪たちの集団だ。人間たちの破壊願望が産んだ存在、といってもいい。むろん、それだけの単純な存在ではないが……。  そして、彼らの隠れ蓑《みの》のひとつが、巨大コンツェルン <シャイアーテックス> なのである。  彼らは、世界が破滅する日をより近づけるために、さまざまな陰謀を企《たくら》んできた。 <うさぎの穴> の妖怪たちは、その背後までは知らないものの、彼らの手先たちと戦い、その邪悪な計画をはばんだことが幾度もあった。むろん <海賊の名誉> 亭の妖怪たちも同様だ。この二つのバーに集まる妖怪ネットワークは、東京でもかなり有力なのである。  これまで <ザ・ビースト> は、極力日本の妖怪たちとかかわることを避けてきた。彼らの力を見極め切れていなかったからだ。今も、その状況は変わっていない。それに、ネットワークの妖怪たちは、まだ <ザ・ビースト> の存在に気づいてすらいない。  けれど、このままでいれば、いずれ全面対決が引き起こされるのは間違いない。そのときのために、少しでも敵の力を削《そ》いでおくことの意味は大きい。それも、決して <ザ・ビースト> が表面に立つことのないような方法で。 「わたしどもが海外から呼び寄せる傭兵《ようへい》は、大変有能な者たちです。しかし、彼らだけでは連中を片付けるには多少不安でして。なにせ高い金をとる連中なものですから、数が用意できない。それほど高額の予算をいただいているプロジェクトではないんですよ、お恥ずかしい話ですが」  妖怪サラリーマンの言葉に嘘《うそ》はなかった。それほど緊急の事態とは捉《と》らえられてはいないのだ。ときには飾らない事実を語るのも交渉技術のうちだと、妖怪サラリーマンは知っている。 「その点、あなたなら日本の海の妖怪を顎《あご》で使えるということじゃありませんか」 「まあね。おいらたちの支配者だって思いあがってた牛鬼をやっつけてから、誰がいちばん強いかはみんな知ってるみたいだし」  自慢げなようすで、海赤子が言った。 「なによりも、あなたは死なないそうじゃないですか。もちろん、我々妖怪は忘れられないかぎりいつかよみがえる。けれど、あなたは、どんな傷を受けても死なないという話ですな」  サラリーマンは、小さく身をのりだしている。 「そこまで知ってんのかい、すごいんだね、あんたたちの調査力は」  海赤子は、なんでもなさそうな口調で言ったが、そこにはかすかに警戒の響きがまじっていた。それを聞き取ったサラリーマンは、あわてたようすでつけくわえた。 「いえいえ、たまたまですよ。偶然知ったのを幸いに、このように交渉させていただいているわけで。それに、なぜ死なないかまではわかりません、本当に」  彼は、大きく両手をふった。仕草といい口調といい、いかにも芝居がかっている。 「そうだよ。おいらは死なない……あいつだって、殺せない。お未夜《みや》だってできない。できない理由があるんだよ」  海赤子の言葉は、自分自身に言い聞かせているようだった。自信を失いかけている彼自身に。 「 <うさぎの穴> でいちばん強いんだって、お未夜が? そのお未夜が殺せないおいらだから、だから頼みたいんだろう」  少しのあいだ、サラリーマンの存在を忘れていた海赤子が、我をとりもどしてそう言った。 「いやあ、すべてお見通しですな。まいりましたよ。どうです、もうすべてぶっちゃけてしまいますが、悪い話ではないと思いますよ。我々は邪魔者を片付けたい、あなたは彼女を取り戻したい……。目的は違えど、やるべきことは同じです。 <うさぎの穴> の妖怪たちの抹殺《まっさつ》。やつらが一人もいなくなれば、彼女はあなたのところに戻ってきます」 「うるさいって言わなかった? おいらたちの関係は、他の者にゃわかんないんだ。口をはさまないでもらおうか」  柔らかな、笑いさえまじえた口調だ。けれど、それは今まででいちばん恐ろしい響きを秘めていた。むきだしの刃《やいば》を首筋にあてられているようだと、妖怪サラリーマンは感じた。 「たいへん、失礼をいたしました。土下座でもなんでもいたしますので、どうかここで交渉を打切るのだけは、御勘弁ください」  いきなり、妖怪《ようかい》サラリーマンはばしゃりと水をはねちらかして膝《ひぎ》をついた。 「いいよ。水が汚れるよ。……でも、ほんとうに、他の男どもを片付けたら、あいつは戻ってくると思うかい?」  海赤子の言葉に、妖怪サラリーマンは、なんどもくりかえしてその首を上下させた。ここが肝心だ。もう一押しで海赤子が落ちると、彼は感じていた。 「もちろんですとも。あなたが最強であることをもう一度納得させればいいだけのことです。女は、強い男に弱いものですからな」  最後の一言には、下品な笑いがおまけにくっついていた。海赤子が、ふんと鼻を鳴らす。ときには、自分を軽蔑《けいべつ》させて、相手の優位を感じさせることもセールスには必要なのだ。特に、こういう自我が肥大しすぎている相手の場合。サラリーマンは、完璧《かんペき》な会社員なのである。 「いかがでしょう? 我々が提供する情報とお手伝いを、使ってはいただけませんか?」  この一言に、承諾のうなずきが返ってくることを祈って、サラリーマンは言った。 「ひとの手を借りたら、おいらが最強だって証明にはならないじゃないか」  妖怪サラリーマンは、ぐっと言葉に詰まった。しかし、この程度でひきさがっては、シャイアーテックスに仕えることなどできはしない。 「もしもお望みでしたら、 <うさぎの穴> の妖怪を滅ぼすたびにいくらか払わせて……」 「そんなものはいらない。……いいよ。そいつらを、ここによこしなよ」  ほんの一呼吸のあいだ躊躇《ちゅうちょ》して、海赤子はそう返答した。 「ありがとうございます」  サラリーマンは、深々と頭をさげた。取り引き成立の瞬間の喜びが、彼が存在を続けて行くためのエネルギー源だった。 「けど、そんな奴《やつ》ら、よくこの国に入ってこれたね」  雇われて悪事を働く妖怪はいる。だが、そういう妖怪が自国に入ってこないように見張る役目をになったものたちもいるのだ。神戸や横浜、成田などにはそういったネットワークも存在するらしい。もちろん、どんな組織であれ完璧ではありえないが。 「蛇の道はなんとやらと申します。 <ナイト・フォッグ> という妖怪ネットワークがありましてね。本来は逃がし屋なんですが、最近は表沙汰《おもてざた》にできないものなら、なんでも運んでくれるんですよ。まあ、正規のルートで入ったってどうということはありませんがね、念には念というやつです」  サラリーマンは、にやにやと笑いを浮かべた。 「ふうん。まあ、おいらにはどうでもいいことだけどね」  海赤子は、関心なさそうな口調を作っている。無表情の下に秘められた意図を、サラリーマンは鋭敏に感じとっていた。 「もしも日本を離れたくなったりしたときには、お声をかけてください。いつでも、彼女と二人分のお席を用意させていただきますよ」  できるかぎり、冗談めかせて言う。 「そして、あんたらに高い仲介料を払うの? やだよ、そんなの」  海赤子は笑う。サラリーマンも笑った。どちらもおざなりな、社交辞令の笑いだった。 「それでは、私はこれで。今夜には、彼らをよこしますので」 「ああ、楽しみにしてるよ」  ぴしゃりぴしゃりと音を立てて、サラリーマンが歩いていく。やがて、その体が闇《やみ》の一角に消えた。妖術で覆い隠された出入口は、闇を逃さず、光の侵入を許さないのだ。  それから十数分後。  真昼の湾岸。妖怪サラリーマンの姿は、新交通 <ゆりかもめ> の中にあった。隣に立った中年の女性に、喫茶店の前で掃除の水をかけられて、ズボンの裾《すそ》が濡《ぬ》れてしまった話で同情をしてもらい、妖怪サラリーマンはすっかり日常に溶けこんでみせている。  彼の背後で、港の一角にいくつも詰まれた色とりどりのコンテナが小さくなっていった。すでに彼には、そのどれにあの闇に包まれた小さな海が収納されているのか、区別できなくなっていた。 [#改ページ]  6 隠される過去  そして、その夜。  有栖川《ありすがわ》公園の戦いの翌日。夜が、そろそろ深夜と呼ばれはじめる時刻。  バー <うさぎの穴> に、妖怪たちが集まっていた。昨日とは、人数は同じだが、いささか顔ぶれが異なっている。  マスターとかなたは同じだ。それに、後二人がいるところに、八環がやってきた。これも、昨日と同じ展開である。  残りの二人のうち、一人は霧香。銅鏡の付喪神で、ふだんは原宿に店をかまえる占い師だ。そして、 <うさぎの穴> に集まる妖怪たちのうちでも最年長。もの静かな雰囲気ではあるが、場の雰囲気をなごませるたくみな話術の心得もある。  もう一人は、夜の、しかも薄暗いバーの店内だというのにサングラスをかけ、ソフト帽までかぶったままの、ずんぐりした体形の中年男だ。彼の名は、土屋《つちや》野呂介《のろすけ》。みんなからは教授と呼ばれている。それは、彼がある私立大学で考古学の教授をつとめているからだ。正体は化け土竜《もぐら》。モグラの妖怪だ。人間の姿になっても、ユーモラスな風貌《ふうぼう》には、どこか真の姿の面影が残っている。だから、学生たちからはモグさんと呼ばれていた。八環とは、不思議と気のあう友人同士だ。  ふだんなら、何かとおしゃべりがはずんでいるはずの面々だった。  けれど、今夜の <うさぎの穴> は静かだった。  ふだんなら、必ず曲を流しているはずのピアノも、今日は沈黙している。ときおり、思い出したように数小節鳴るけれど、すぐに静かになってしまう。いつもなら、彼の前に座っている、そして曲にあわせて歌ってくれる女性がいないからかもしれない。  そんな沈黙が、八環がやってきてから三十分あまりも続いていた。彼は、いつもの日本酒——あまり銘柄にはこだわらない——を、もうコップで五杯は空けている。たばこは、すでに二箱目に突入していた。一口か二口吸っただけで、灰皿でもみ消してしまうのだ。 「未亜子さんのようす、どうだった?」  とうとう、その静けさに耐えかねて、かなたが口火を切った。 「部屋に入れてくれなかったよ」  思いの他あっさりと、八環は口を開いた。その口調もおだやかだ。 「事情は教えてくれたの?」  昨夜、かなたと八環が駆けつけたとき、すでに戦いは終わっていた。未亜子も霧香も、何者かに襲われたと告げただけで、くわしいことは何も話さなかった。流を襲ったやつかと尋ねたら、小さく首をかしげて、おそらくそうだろうと言った。何か話したかと尋ねたら、霧香が割りこんで『言葉はかわさなかった』と答えた。 『たぶん、過去のなにかで <うさぎの穴> に恨みを持った妖怪でしょうね』  霧香は、そうもつけくわえた。  けれど、未亜子の蒼《あお》ざめた顔つきを見れば、ただの悪い妖怪に襲撃されたのでないことくらいわかる。襲われたくらいのことで動揺するような未亜子ではない。そのことは、誰よりも八環がよく知っていた。どんな悲惨な戦いでも、未亜子が顔色を変えたことはない。  とにかく、その場は部屋まで彼女を送った。八環は、彼女を守るために泊まっていきたいところだったのだが、霧香がついているからと追い返されたのだ。かなたも、一緒にと申し出たが断られた。  そして、今日。  昼間訪ねてみた。未亜子はいたが、ドアを開いてはくれなかったのだ。  何度か叩《たた》き、中に向けて怒鳴った。冷静でいろというのは、無理な話だ。内側にかかえた、いろいろな疑問が彼を混乱させていた。流を倒し、昨日霧香たちを襲ったあいつは、未亜子の過去と関係していたのか、確かめたかった。  せめて、顔だけでも見せてくれと言った。そうすれば、安心できるのじゃないかと思ったのだ。けれど、未亜子は何も答えなかった。 「ただ、帰ってくれの一点張りだ。そんなことをすれば、ますます尋常のことじゃないとわかるばかりなのにな。あいつが、そんなこともわからないくらいに、頭に血がのぼるなんて」  八環は、また煙草を一本取り出して火を点《つ》けた。深々と息を吸いこんで、吐き出す。  日が暮れてから、もう一度訪ねてみた。インターホンを鳴らしてみても、答えはなく、しばらくドアの外でたたずんだ後、八環はそこを離れたのだ。 「煙草は、男にとって便利なものだ。堂々とため息をつかせてくれる。そう言ったのは、誰でしたかな」  教授が、虚空に顔を向けたまま言った。皮肉でもなんでもなく、ただ思いだしたことを口に出しているのだろう。彼は、いつも独り言が止まらないから。 「強引に入っちゃえばよかったんだよ」  かなたの言葉に、八環は、火を点けたばかりの煙草を灰皿に押しつけた。 「できんよ……。あいつの髪に切り裂かれるのはごめんだ」  もちろん、合鍵《あいかぎ》は持っている。強引に押入ることだって、できない相談ではなかった。けれど、それもできなかった。  お互いのプライドが、その扉を閉ざしていた。干渉しあわないのが、二人のあいだのルールだったから。それが傷つけあうことへの怯《おび》えだと、いつしか気がつきながら、容易に変わってゆくことができなかった。 「なあ、霧香……」 「私には話せないわ」  鏡の化身は、にべもなく言葉を跳ね返した。 「ゆうべ何があったのか、出会ったのが誰なのか知ってはいるわ。いまさら、知らないといっても納得してもらえないでしょうし」 「もちろんだよ」  そう呟《つぶや》いたのは、かなたである。 「やれやれ、困りましたな」  教授がぼやく。かなたが彼のほうを見た。教授は、それで自分が口を開いたことに気づいたらしい。ゆっくりと自分の口を、片方の手でふさいだ。 「知っているけれど、私が話すわけにはいかないの。わかってちょうだい。これは未亜子の問題だわ。彼女から聞くのでなければ、だめなの」  霧香は、八環の顔をまっこうから見つめた。 「未亜子のことを思うのなら、ほうっておいてあげるのがいちばんだわ。彼女なら、自分で解決できる……彼女が解決するしかないことなのよ」 「そう……そうだろうな。未亜子は、あいつは、なんでも自分で解決できる。でもな、手伝ってもらえば、もっと早く楽になるとは思わないか?」  八環は自分の手もとを見つめたままでそう言った。霧香は、ゆっくりと首を左右に振る。 「かもしれないし、そうでないかもしれないわ。なんにせよ、判断するのは彼女よ」  霧香の言葉に、八環は火のついた煙草を、おのれの手で握りつぶした。 「なにもしちゃいかん、というわけか」  声は静かで、平然としている。 「手を出せば……もっと未亜子を傷つけることになるかもしれないわ」 「そんなふうに嚇《おど》かしたって駄目だからね」  静かな霧香の声に、固い口調でかなたがわってはいった。  教授も、マスターも、同時に少女に手をさしのべた。止めようとしたのだろう。けれど、それよりも瞬間早く、かなたは言葉を続けていた。 「霧香さん、どうしちゃったのよ。変だよ、それって。理屈にあってない」  かなたは、正面から霧香の目を見つめた。 「未亜子さんの事情はあるかもしれないけどさ。襲われてるのは、みんななんだよ! 未亜子さんだけが襲われてるなら……それでも、あたしはほっとくなんてやだけど」  かなたが、ばんとカウンターを平手で打った。霧香たちの視線が、少女に集まる。 「……今はまだ流くんだけかもしれないけど……他にも襲われないって保証あるの?」  声のいきおいが、急に衰える。 「保証してくれないと困る。でも、話してもらわないと困るよ。自分のことだけ考えないで……みんなが迷惑するんだから!」  それでも顔を伏せず、きっぱりとした口調でかなたは言った。 「大丈夫よ……未亜子がなんとかするわ。彼女が、まわりを見捨てるわけもない。それに、彼だってそうそう無茶は」 「しないって? 霧香さんも、あの赤ん坊の正体知ってるんだよね……あたしもわかってる。未亜子さんの子供、なんでしょ」  かなたの言葉に、霧香はそうだとも、そうでないとも答えなかった。ただ、かなたの顔を見つめ返しているだけだ。深い湖にも似た彼女の瞳《ひとみ》に、かなた自身の姿が映っている。 「そうじゃ……ないの?」 「私の口からは言えない、そう言ったはずよ」  霧香は、前に置かれたグラスに手を伸ばした。白く濁った酒は、彼女が生まれたころからこの世にあったものだ。酒そのものではなくて、その製法がだけれど。 「じゃあ、いい。未亜子さんに訊《き》く。行こう、八環さん」  かなたが、スツールからひょいと飛び降りた。 「俺《おれ》は……」  苦い声で、八環は言った。 「俺は、みんなのことまで考える余裕はないよ。あいつのことしか、今は考えてやれん」 「それにしたってさ、わけを聞かなきゃどうにもならないでしょ。あいつとの関係とか、いろいろ、ちゃんと確かめるの。霧香さんに言われたこと言い訳にして逃げようたってそうはいかないからね」 「しかしな、かなた」  マスターが口をはさむ。 「もういいっ」  叩きつけるように言うと、少女は狭いバーから飛び出して行った。  音を立てて閉じられた扉を、取り残された四人はしばらく見つめていた。 「未亜子が、はじめてここに来たときのことを覚えているかね」  マスターが、八環のグラスに酒を注いでやりながら言った。 「つっぱってたのよね、彼女。誰とも口をきかないで、毎日ピアノを弾いてたわ」  黙っている八環に変わって、霧香が口をはさむ。 「そこに毎日ちょっかいをかけておったのが、やたさんでしたな」  教授の言葉は、答えなのか独り言なのか判然としなかった。 「気がついたら、未亜子さんがやたさんにだけは口をきくようになっていた」  今度は、ちゃんと八環のほうに向かって言った。 「話しかけるなんてもんじゃなかったぜ、あれは。うるさいとか、邪魔するなとか。俺が、いくら冗談とばしたって、くすりともしない」  コップの中身をなかばまで一気にあおって、八環が言った。 「でも、その場を立ち去りもしなかった」 「他のやつが用事があって話しかければ、ちゃんと目を見て話をするのに、俺と話すときはいつも鍵盤に視線を落としてた」  八環のその言葉は、どこか嬉《うれ》しそうだった。 「あなたを見るのが怖かったのよ。惹《ひ》かれてしまう自分を意識していたから。あなたにだけは、甘えていたものね、彼女」  霧香が、マーティニのオリーブをかみ砕く。 「甘えてた、あれが? ああしろ、こうしろって指図ばっかりで。俺のことなんざ、ほったらかしで気をつかってもらったこともないぞ」 「わかってたんでしょう? あなたのことを信頼してるから。だから、そんな態度に出ても平気だと思っていられるんだって」 「わからない……今でもな」  八環は、虚空《こくう》を見つめてぼそりと呟《っぶや》いた。 「みんながあいつを強いという。でも、俺ははじめて見たときから未亜子がもろく見えてしょうがなかった。だから守ってやりたいと思った。あいつは大人なんかじゃない。まだ子供なんだ。そのくせ、誰より母親でいたがる。自分一人で背負《しょ》いこみたがる」  みんな、黙って彼の言葉に耳を傾けた。反論するものはいない。少なくとも、ここにいる者たちは、八環と同じ印象を、未亜子にいだいていたのだ。 「けど、守ればあいつはますます弱くなるような気がした。へたに抱きしめれば、砕けてしまうんじゃないかと思った。だから、距離を置こうとしたんだ。あいつに悟られずに、あいつを守ってやりたかった。あいつが強いやつなんだと思ってるふりをした。弱さに気づいてると思ったら、俺に負担をかけたくなくて、あいつは逃げてしまうって、そう考えたんだ。……みんな、俺の思いあがりだった、のかね」  残った酒を、八環は飲み干した。 「年をとると、臆病《おくびょう》になるものだ」  マスターが、もう一度酒を注いでやりながら言った。 「どうしてかな。友達同士でも、無茶ができなくなる。お互いを知りすぎてるからかもしれん。相手の中に踏みこんでいけなくなるんだ。けれど、ときには壁を破るしかないときだってあるよ」 「私たちは妖怪《ようかい》だもの……人間ほどには変われない。だから、変わることが怖くなるのよ。長いときをそのままですごすほど、変化を恐れる。秘密にしていたことを打明けるだけならいいわ。でも、それを聞いて、相手がどうするかが不安なのよ。しょせんは妖怪、自分は本当に心というものがわかっているだろうか。不完全な存在じゃないのか。長いあいだ生きていればいるほど、不安になるわ。だから、何も変えずに乗り切ろうとする」  霧香は、白く濁った酒を見つめながら、ゆっくりと言葉をつづった。 「でも、変わらないというわけにはいかんでしょう。そうしたいなら、目覚めずに眠っていればよかったんです。一度変わってしまったからには、変わり続けていくしかない。地中で眠ってなかったから、ここでこうやってお酒も飲める。よい方向に変わることだって、できるんじゃありませんかね」  教授が、ちびちびとトリスをすすりながら言った。 「……そうだな。未亜子を弱いままでいさせたいってのが、俺の傲慢《ごうまん》なのかもしれない。あいつを守ってやってると思うことで、俺は自分を満足させたかったのかもしれない。あいつが、本当は強くなれる女だと知ってるからこそな」  八環は、立ち上がった。 「あいつが寂しいときに、ぬくもりになれればいいと思ってた。でも、心に触れずに、あたためてやるのは無理なのかもな」  彼は、扉に手をかけた。  それと、ほぼ同時刻。  遺跡たちの、数百年の眠りをさますような騒ぎが起きていた。  JR新橋駅の近くである。遺跡というのは、少々大げさかもしれない。鉄道工事中に見つけられた、大名屋敷の跡である。今、発掘調査の真っ最中だった。 「はい、ごめんなさいよ」  薄汚れた格好の、腹の丸い男がはりめぐらされたロープを乗り越えた。  盗掘するようなものもないから、警備員も置かれていない。学術調査にたいした予算はないのだ。いたずらする者でも出れば無理もするだろうが、誰にとっても幸いなことに、そんな不心得なやからは、今までいなかった。 「へっへっへ、今日も一日の労働ごくろうさん、と」  幸せをわかちあっている者のひとりである有月成巳も、いたずらなどするつもりは毛頭ない。彼は、ここ数日、ここを寝ぐらにしていた。誰にも追い出されない場所で、けっこう重宝している。朝が早すぎるのが難点だが、このところの東京は警察に追い立てられ、餓鬼どもにちょっかいをかけられで、寝心地のいい場所を探すのは難しいのだ。  それに、昔の匂《にお》いがする場所は、なんだか気分が楽になれてよかった。  そして今日も、ベッド代わりのダンボール一枚と掛け布団代わりの古新聞をさげて、発掘現場に入りこんでいる。  髭《ひげ》もじゃの顔に、ぼさぼさの髪。どこから見ても、中年のホームレスだ。もう半年ばかり、風呂には入っていない。だが、ふつうの人間なら、まだ一週間かそこらと見積るだろう。  彼も妖怪。 <うさぎの穴> の常連の一人である。妖怪は、新陳代謝が独特だ。そうそう垢《あか》も出ない。重ね着している穴だらけのセーターと、すりきれたコートは、夏のあいだ公園の噴水で洗濯しておいたおかげで、それほど汚れていないし。  片手には、一升瓶をさげている。もちろん、中身はまっとうなものではない。拾い集めた酒をみずから調合したスペシャルだ。これがなければ、彼は生きてゆけない。彼言うところの一日の労働は、この中身を集めることだ。 「今日はどこにするかな?」  彼は、すでに酔っているかのような千鳥足で、ふらふらとあたりをさまよった。  やがて、背もたれにちょうどいい場所が見つかった。古い井戸の跡だ。もちろん埋められているが、積まれた石の跡は、よりかかるにはいい。 「さて、どっこいしょ。今日は、月遅れの月見酒と洒落《しゃれ》こむか」  腰をおろして、彼はごくりと一口酒を飲みこんだ。  いつもなら、じっくりと時間をかけて味わう。のんびり飲むのが、彼の趣味だ。  けれど、今日はそのまま、ごっごっごと音を立てて一気に飲み干した。  ウオッカにウイスキー、日本酒にビール。何もかもごたまぜにしてある。ふつうの人間なら、いや妖怪だって一口で悪酔いすること間違いなしのしろものだ。  そいつを一分とかからずに、一気に飲み干してみせた。 「ぷふぁあああ」  ぽんと音を立てて、瓶が口もとから離れる。彼が天をあおいで吐いた息は、ほんのりと桃色に染まってすらいるようだった。 「たまらんなぁ」  嬉《うれ》しげに言って、有月はぶるっと体を震わせた。そして、彼は身にまとっていた雰囲気をがらりとかえた。我が家でくつろぐそれから、戦いを前にした闘士のそれに。 「これが、わしの唯一の楽しみだっていうのに。いきなり、客に押しかけられて邪魔されちゃかなわんのう」  ごとっと、一升瓶を地面に置いて、有月は言った。体を傾けて、片肘《かたひじ》で支えている。丸い鼻の頭は真っ赤だ。  けれど、その日は冷やかな光をたたえていた。空で輝いている、満月に二すじ足りない月よりも、もっと冴《さ》え冴えとした光を。 「あんたが、こんなとこにいるとは思わなかったよ。あいつの近くに、おいらたちの昔を知ってるやつがいるなんて」  有月の視線が向かっている先には、人影が一つ。正確には二つ。  白いおくるみを抱いた女が立っている。もっとも、ほんの一瞬前まで、そこには誰もいなかったはずなのだが。  声はおくるみの奥から聞こえた。 「……てこたぁ、おめぇ、海赤子か? それも、未亜子ンとこの……生きちょったんかい」 「おいらは死なないよ」  おくるみの中から、くすくすと無邪気な笑い声とともに答えが返ってきた。  有月は、住所不定だ。たいてい、彼のほうから <うさぎの穴> に連絡をとる。だから、まだ事件の知らせは届いていなかった。 「女房に殺されたと聞いちょったがな」  有月が上半身を起こす。おくるみのほうに動きはない。女は、ぼうっと立っているだけだ。ときどき、思いだしたようにおくるみをぽんぽんと叩《たた》くだけ。 「殺されなんかしないさ。封じられただけだよ。それでも、外のことは見てたし。近頃は便利なものもいろいろあるし。出てきてから、今の時代に馴《な》れるのに苦労はいらなかったよ」 「そうかい。死んじょらんかったかい……今度こそ、ほんとに滅ぼされんように気をつけるこったな」  有月の口調は辛辣《しんらつ》だった。海赤子の口調には、どこかひとの神経を逆なでするようなところがあったのだ。子供が、自分が子供であることを免罪符に、わざと悪いことをしでかす、あのときの言い訳の言葉の響き。小生意気で、自信たっぷりで、そのくせこちらが叱れば自分の弱さをふりかざす。 「おいらを殺すなんてこと、母ちゃんにはできないよ。封じるときだって血の涙だったんだからね」  海赤子の声を聞いているうちに、有月のまぶたがひくひくと動きはじめている。それに気づいているのかいないのか、海赤子は言葉を続けた。 「うちの母ちゃんは、本心じゃあ、おいらをとっても大事に思ってるのさ。けど、うわばみのおっちゃん、その口調だと……まさかと思うけど知らないのかい?」 「何を」  有月は、もじゃもじゃ眉毛《まゆげ》をひそめた。 「お未夜……母ちゃんのことさ。あんたたちの仲間うちじゃ、未亜子と名乗ってるそうじゃないか」 「そのことかい」  有月の顔に刻まれた皺《しわ》が、ますます深くなった。 「知っちょったよ。けど、お前、そげな昔の話、いちいち尋ねたりせんけんな。 <うさぎの穴> に紹介してくれたんは、あの子だよ。どうなんだ、お前さんも、人間とおとなしくやってく気になったんか? なんだったら、わしが仲裁に入ってやるぞ」  顔をつるりと撫《な》でて、有月はしかめっつらを消した。せいいっぱい、あいそのいい笑い顔を作ってやる。気に喰わない相手でも、歩み寄ろうとしているなら無下にはできない。  それは <うさぎの穴> の仲間たちとのつきあいから学んだことだ。 「ははは。こりゃあ驚いた。おっちゃんから、そんな言葉が聞けるとは思わなかったよ。何百人のいけにえを喰らい、日本海にそのひとありと恐れられた渦の蛇神さまに」 「よしてくれ。わしは、人間を喰うたことなぞないわい」  かつて、有月は、日本海に浮かぶ小さな島で神として崇《あが》められていた。豊穣《ほうじよう》をもたらす蛇として。しかし、生来の怠け癖のおかげで、彼は捧《さき》げられる酒を舐《な》めるばかりで、期待された御利益を授けることはまれにしかなかった。やがて、乙女を捧げる風習はすたれ、そして島から人間たちはいなくなった。  そして、彼も島を出て、日本をさすらうようになったのである。もっとも、ぐうたらは相変わらずで、一度たりともまっとうに働いたことなどない。ここ十年ばかりは、東京にいついていたが、気がむくとふらりと旅にも出る。 「人間を嫁さんにはしたんだろう」  からかうような口調で、海赤子が言う。その言葉で、有月は回想から我に返った。 「それはやったが、一人だけだ。……つまらんことを知っちょうのう」  江戸時代のはじめごろまでは、いけにえの儀式で本当に娘が捧げられていた。十年に一度、彼の寝ぐらのすぐそばにあった、海の渦に突き落とされていたのだ。  当時の彼は、人間たちの営みに関心を持っていなかった。必要なのは酒であり、他に人間たちが何をしても知ったことではなかったのだ。  だが、あるとき、一人の妖怪《ようかい》がやってきて、いけにえの儀式を止めるように、彼の口から島民たちを説得してくれるように頼んだ。  彼は、それを承知した。そして、その年のいけにえだった娘を救い、彼女を自分のやしろに住まわせた。  妻となったその娘と住んでいるあいだは、彼も積極的に人間を守っていた。妻が死んでから、酒ぴたりの日々に戻ったが、人が苦しみ、死んでいくのを見過ごすことはなくなったのである。  そして、彼にいけにえを止めさせるようにしむけた妖怪こそ、未亜子だったのだ。  彼女の存在は、以前から知っていた。  この近海を誰の縄張りとするかで、何人もの妖怪が争ったことがあった。そのとき、勝ち残ったのが濡《ぬ》れ女と海赤子のコンビだとも聞いていた。彼自身は、そんな勢力争いに興味はなかった。一度、手を貸してくれと海座頭に頼まれたこともあったが、面倒くさくて断ったのだ。濡れ女と海赤子も、一度だけ、戦っているのを遠くから見かけたことがあった。そのときは、別段なんの感想もいだかなかった。へえ、あれが、というくらいのものだ。  それからずいぶん長い時間がすぎてから、未亜子は彼の前にあらわれた。いけにえを止めさせるために。  人間の姿になっていたから、はじめはあの濡れ女だとはわからなかった。  そして、彼女はこう言ったのだ。 『母親が嘆いているわ。父親をなくして、女手ひとつで育ててきた娘、その子が幸せになることだけにすべてをそそいできた娘が、村のために我が手から失われることを……。わたしには、彼女を見捨てることはできないの』  その言葉にこめられた、深い哀《かな》しみと憤りが、ものぐさだった有月をも動かした。断ったら何をされるかわからん、という理由もあったけれど。  そのとき、彼女が連れているはずの海赤子がいないことを、有月は気にもしなかった。数年後——数十年後だったかもしれない——、通りすがりの妖怪から、濡れ女が海赤子を殺したのだと聞いたときも気にも止めなかった。  あのときの真摯《しんし》な瞳《ひとみ》を思い出せば、きっと何かの事情があったに違いないと思ったからだ。  東京で再会し、 <うさぎの穴> にさそわれてからも、昔の話はしたことがない。 「それで、いったい、お前何しにきたんだ? 言うとくが、あいかわらず人間を喰おうなんてことを考えてるようじゃ、未亜子ちゃんとよりを戻すのは無理だぞ」  有月は、相変わらずだらしなく腰を落としたままだ。けれど、おくるみとホームレスのあいだには、徐々に緊張の糸がはりつめつつあった。  戦いが、今にもはじまろうとしている。 「ちゃんなんて言うな」  毒々しい口調で、海赤子は言った。 「やっぱり、お前も母ちゃんにちょっかい出してんだな。そうじゃないかと思って、ようすを見にきてよかったよ」  ここに有月がいることは、 <ザ・ビースト> のエージェントが知らせてくれた。 「なんだ、お前。やきもち焼いちょうのか?」  有月の顔に、思わず笑みが浮かんでいた。 「蛇め……同じ蛇の尻尾《しっぽ》があるからって、母ちゃんとお前じゃ、まるで違うんだ。図に乗るな……」  海赤子は、熱に浮かされたようにぶつぶつと呟《つぶや》きを続けた。そのようすで、有月も油断していたのか。 「死ね」  ぼそりとしたその声に、とっさに反応できなかった。  さらに、攻撃はまったく予想外の方角から来たのだ。 「うおっ!?」  地中から、次々に何かが躍りあがった。それが、有月を喰らおうとする。  喰らうというからには口だ。ずらずらと短剣のような牙《きば》が並んでいる。それが都合六つ。地面を割ってあらわれたのである。  五つは避けたが、残りの一つが有月の足を捕らえていた。噛《か》み切るのではなく、ぶんとふりまわして地面に叩きつけようとする。 「こりゃ、よさんかい」  そう言ったときには、もう彼の体は空中にあった。大地にぶつかるよりわずかに早く、彼の体を虹色の鱗《うろこ》が覆った。手足は消え、頭部が尖《とが》る。  ずしゃあと音を立てて地面におりたったときには、すでに有月は真の姿をあらわしていた。深い海を映したかのような緑の体を持つ、大蛇。妖怪うわばみ、それが彼の正体だ。 「お前……いったいなんじゃい?」  二股《ふたまた》に分かれた舌をちろちろと出し入れしながら、有月はそう問いかけた。  有月に襲いかかったのは、六つの犬の頭だった。少女の下半身が、六匹の犬に変貌しているのだ。腰から下が蛸《たこ》の脚のように、六つに分離している。触手の先端が犬の前半身になっている。そして、犬たちをすべる頭脳、輪の頭——正確にはあれは胴体だが——にあたるのは、豊かな胸を揺らす清純な美貌《びぼう》の乙女だった。  いかに美しくても、彼女の目は殺戮《さつりく》の喜びに輝いている。たたえられた赤い光は、彼女が望む血の色だ。 「ギリシャの海にいる妖怪さ。スキュラっていうんだ。おいらの魅力に参って、どうしてもお手伝いしたいって言ってくれてね」  海赤子が、楽しげな笑い声をあげた。 「自分が浮気しちょって、嫁さんには他の男と口もきくなっちゅうんか。聞けん話だな」  有月は鎌首をもちあげて、しゃあっと威嚇の声をあげた。  彼の武器は三つ。ゆらゆらと動く頭部で相手を眠らせる、睨《にら》みつけて金縛りにする、そして長年ためこんだ酒気を吐きかけて酔っ払わせる。  眠らせるのは時間がかかりすぎる。金縛りは、相手も動けないが自分も動きが制限される。  スキュラだけではなく、海赤子も油断できない相手だ。 『やはり酒か』  一瞬のうちに、そう判断して彼はすうっと大きく息を吸いこんだ。彼が吐く、人外の酒を含んだ桃色の吐息は、たとえどんな相手であろうと酔わせる。  だが、有月が大きく息を吐いた、その瞬間。 「ぐへっ?」  彼めがけて、より正確には彼の口をめがけて、大量の水が叩《たた》きこまれたのだ。  それは、たった今まで、有月がよりかかっていた古井戸から吹き出していた。埋められていたどころではない。ほんのしばらく前までは、地下数メートルにうずもれていた井戸なのに。有月が吐こうとした酒気は、清冽《せいれつ》な地下水に押し戻された。邪悪な者でも、清らかなものを利用することはできるのだ。  やがて、水のいきおいは衰え、井戸の中に溜りはじめた。  水の中に、白く濁った瞳が一組、浮かんでいる。どんな光もとらえることのない目。そのまわりに、他の部位が形成されていく。  うっすらと、かびのような髪がはえはじめている、本来なら剃《そ》りあげられているはずの頭。墨染の衣。そして、行く手を探る杖《つえ》。 「てめえ、海座頭?」  げぼぼっと水を吐き捨てて、有月はようやくそいつの名を口にした。  海の妖怪《ようかい》のひとり。夜の海にあらわれて、船を惑わす、盲目の人間の姿をした妖怪だ。 「そうともよ。おめえが手伝うてくれなかったから、争いに負けた海座頭よ。今じゃ、海赤子さまの一の手下さ」  言うが早いか、海座頭が杖を突き出した。水で膨らされた腹が重くて、有月は避けきれなかった。  尖った杖の先端が黒い宝石のような、うわばみの目を貫く。  有月の絶叫は、誰の耳にも届かなかった。 「はははは、その体で、三人を相手にしちゃあ、いくらおっちゃんでも勝てないよね! あんたがいるとき、何を話されるかわかんないしね。おいらの秘密は知らなさそうだけど、ひょっとしてとぼけられてるといやだし。あの女たちともども、しばらく黙ってて欲しいんだ。黙ってろよ、永遠に何も言うなよな!」  海赤子は、愉快そうにけらけらと笑い続けた。おくるみを抱いた女は、その海赤子をいとおしげに撫《な》で続けていた。 [#改ページ]  7 稀文堂襲撃 「未亜子さん! 未亜子さんってば! いるんでしょ? ねえ、ここを開けてよ!」  マンションのこのフロアに住んでいるのは未亜子だけ。だから、どれほど大きな声を出そうが、がんがん鉄の扉を殴りつけようが、遠慮せずにすむ。 『こんなときに教授みたいな妖力があれば、困らないのになぁ』  と、かなたは思った。  化け土竜である彼は、地中を自在に往き来できる、土を泳ぐ力をそなえている。その応用で、たいていのものは、水か何かのようにするりともぐっていってしまえるのだ。 「いっそ教授に化けて……ああ、そんなことしたって力は身につかないって」  鳥になって空を飛ぶことはできても、妖怪の特別な力まで写し取るのは、彼女の化ける能力では不可能だった。  だから、結局ただの人間同様に、開けてくれと頼み続けるしかない。  何度も何度も、インターホンの呼び出しベルを鳴らしてみたが、やはり答えはなかった。 「こーなりゃ、我慢比べだからね」  すでに、かなたはすっかり頭に血がのぼってしまっている。 「未亜子さ〜ん、未亜子さん。いませんか〜。電報ですよ〜。宅配便ですよ〜」  そういう手管を使うなら、まず最初に化けてくるべきであろう。 「だめかぁ」  すっかり疲れきって、かなたはぐったりと扉にもたれかかった。 「ヘアピンかなにか、あったかな」  自分のおかっぱ頭に手をあててみる。 「ああ〜、あっても、どうせ使えないじゃない」  ぐるっと身をひるがえして、鍵穴《かぎあな》に目をあててみるが、最近の鍵はそんなことで向こうが見えたりはしない。 「おい」 「うわっ! ごめんなさい。どうしても急ぐ用事があって、少し静かにしますか……あれ」  拝むようにあげていた頭をちらりとあげてみて、かなたは目をぱちくりと閉じて開けた。 「下の住人が文句つけにきたわけじゃない」  片方の手をスラックスのポケットにつっこんで、苦笑いを浮かべているのは八環だった。彼は、もう片方の手でかなたを押しやった。その手には、鍵束が握られている。ゆうべも見た、この部屋の合鍵だ。 「どうして?」  かなたがそう訊《たず》ねたときには、八環の苦笑いは消えていた。 「俺《おれ》は未亜子を助けてやりたい。それが自分の自己満足でもなんでも、やりたいことを我慢するのは性にあわん。かなたごときに説教されたきりってのは、もっとあわんしな」 「ごときって何よ、ごときってぇ」  ぶつぶつと文句を呟《つぶや》きながら、かなたは八環のわきにある隙間《すきま》に体をねじこんだ。彼に先んじて、部屋に入るためだ。 「未亜子……さん? ごめんね……? お邪魔しちゃいますよぅ?」  部屋の中は、がらんとしていた。昨日の夜と、ほとんど同じだ。部屋のあるじは、今夜も留守にしているようだった。 「いない……? どこにいったんだろ。まさか」  外に駆けだそうとするかなたの肩を、八環が掴《つか》んだ。 「バッグがない」 「へ?」 「偽物のシャネルだ。偽物のわりには丈夫でな。あいつが旅行に出るときは、いつもあれだ」  靴を乱暴に脱ぎ捨てて、八環は部屋にあがりこんだ。かなたも、あわてて後を追いかける。 「よく知ってるね」 「俺が買った。取材で香港に行ったときの土産だ」 「なるほど」  かなたはうなずいた。未亜子は、いつも趣味のいい高級そうなものを身につけているが、いわゆるブランドもののたぐいは、あまり見かけた記憶がない。  八環は、ずかずかとあがりこんで、クロゼットを開けた。 「バッグはないな」 「服は? なくなってるのない?」  かなたの問いに、八環は顔をしかめた。 「わかるかよ、こんなにあるんだぞ」 「どこが!」  未亜子のような女性にしては、三十着ほどというのは、かなり少ない。 「これだから男ってのは……あれ!」  部屋の中を見回したかなたは、ベッドのサイドテーブルの上に置かれた、一冊の分厚い本を見つけた。  時刻表だ。  二人で飛びついて、ページをめくる。数ページ、破りとられていた。山陰方面への電車のようだが、確定はできない。 「ちっ」  八環が舌打ちをした、そのときである。  電話が鳴った。  音楽のような響きのベルだ。それと知っている八環でなければ、それが電話だとはわからなかっただろう。  八環とかなたは、顔を見合わせた。どちらがとるべきか、迷っているのだ。  手を伸ばしたのは、かなただった。 「もしもし?」  できるかぎり未亜子の声に似せて、かなたは言った。術ではないが、声帯模写は少しできる。 「かなたちゃんね」 「なんだ、霧香さんか」  この程度のごまかしは、彼女相手にはとうてい通じない。 「未亜子さんならいないよ。旅に出たみたい。あたしと八環さんでこれから探しに行くとこ」 「止めないわ」  霧香の言葉に、ただごとでない雰囲気を感じて、かなたは言葉を途切《とぎ》らせた。 「有月さんと、蔦失くんが襲われたの」  どこかでひゅうひゅう風が鳴っていると、かなたは思った。それが、自分の呼吸音であることに気づいたのは、受話器を八環にとりあげられてからだった。手慣れたようすで、音声をスピーカーに切り替える。 「で、どうなったんだ、連中は?」 「ひどいものよ。生きているのが奇跡ね」  霧香の声が震えるのを、かなたははじめて聞いた。たった二日で、数十年ではじめてのことに何度遭遇するはめになるのか。  有月を倒した奴は正体不明。蔦矢を傷つけたのはギリシャのグラコウスという海坊主だそうだ。そちらは、すでに撃退したと霧香は言った。八環のあとで、霧香も <うさぎの穴> を出た。  蔦矢とおちあったところを襲われたのだ。 「浅香がまだいてくれてよかったわ。真原《まはら》くんにも来てもらったし、 <薬元堂> にも連絡をとったの」  真原かずしは、ろくろ回しという妖怪《ようかい》だ。時間を逆転して、壊れたものを修復できる。生き物にも、いくらかは効果をあらわすのだ。 <薬元堂> というのは富山にある妖怪ネットワークで、名前の通り薬にかかわる妖怪たちの集まりだ。 「わかった。二人のことは頼む。こっちは、未亜子のことで手一杯なんだ……霧香、あんた、あいつの行き先、心当たりはないのか」  八環の声は冷静だった。けれど、もし八環の右手が握りしめているのが、自分の左手首でなければ、とっくに握りつぶしていただろう。受話器を壊さないために、左手を押さえつけているのかもしれない。  彼の問いに、霧香はしばらく沈黙を続けていた。ようやく返ってきた答えは、こういうものだった。 「わたしは、だめよ。彼女と、決して話さないと約束したもの」 「霧香!」 「霧香さん」  かなたと八環の声が重なる。激昂《げっこう》したようすの二人と対照的に静かな口調で、霧香はこう言葉を続けた。 「だから……文子のところに行ってごらんなさい。彼女は、未亜子と何も約束していないわ、今のところ」 「……わかった。怒鳴ってすまん」  八環が、大きく息を吐いて言った。彼の手から、かなたが受話器を奪い取る。 「霧香さん、大丈夫? 疲れてるみたいだけど?」 「こちらは平気だから、早く文子のところに行って。気をつけてね。蔦失くんはまきぞえをくったのよ。襲われたのは、私なの。昔のことを知っている者を、邪魔だと感じているみたいね」  文子の店は、吉祥寺《きちじょうじ》にある。彼女のフルネームは、墨沢《すみさき》文子。稀文堂《きぶんどう》という古書店のあるじだ。こう言うと、ずいぶん年老いた女性を連想するかもしれないが、見た目は二十代の美人だ。  実際には、霧香についで昔から生きている妖怪である。  彼女の正体は文車妖妃《ふぐるまようき》。書物や、手紙に託された想いから生まれてきた妖怪だ。  彼女の店には、書かれることなく終わった幾多の本が置かれている。著者たちの、あるいは読者たちの想いが、この店に積もっているのだ。  古書マニアのあいだで、稀文堂のことは伝説として囁《ささや》かれていた。その伝説は、こうしめくくられる。 『店に入って、欲しい本を選ぶのはいいけど、立ち読みだけはしちゃいけない。店主が三つの質問をしてくるんだ。それにちゃんと答えられないと、食べられてしまう』  最近は、さらに、つい先日も仙台のキムラとかなんとかいう男が、食べられたそうだ、というおまけがついている。  いわゆる都市伝説。これもまた、今の妖怪たちにとってよりどころのひとつではあるのだが。 「文ちゃんのお店なら、濡《ぬ》れ女の伝説について書かれた本もあるよね、きっと」  かなたがそう言ったとき、八環の車は狭い路地に入りこんでいこうとしていた。選ばれた者にしか、見出《みいだ》せない道だ。  この先に、文子の店がある。 「それにしても、文ちゃんって、どこからあれだけの本を見つけてくるのかな」 「知らないのか?」  八環は、ゆっくりと車を走らせていた。狭い道だから、そうは飛ばせない。それに、ここま  でくれば、めったな奴《やつ》に襲われることはないと安心していたのだ。 「あれが、彼女の妖力なんだよ。想いに形を与えて、本にするのが」 「へえ、たいしたもんだね〜。でも、いくら強い力でも、戦いには使えないね。早くいって守ったげないと」  霧香の『気をつけてね、迎えにいってね』、というのが、そういう意味だと、かなたはとらえていた。どう考えても、文車妖妃に戦闘能力があるとは想えなかったからだ。  か弱そうで、たおやかな文学少女というのが文子のイメージだった。少女というには、ぎりぎりの外見年齢だが。 「でも、あの文ちゃんが、人間を食べるなんて、どっからそんな噂《うわさ》が出てきたのかしらね。やろうたって、できゃしないよねぇ」  八環は、かなたの感想には答えずに、車を止めた。木枠のガラス戸に、白い文字でこう書かれている。『ふるいほん 売り買いいたします』と。  その真上には、少しかしいだ看板がかかっている。『古書 稀文堂』としるされていた。 「こんばんは」  かなたが、がらがらと音を立てて、たてつけの悪い戸を引き開けた。八環も後に続く。煙草はくわえたままだが、火は点《つ》いていない。  小さな店だ。棚にはびっしりと本が詰めこまれている。  きちんと整理されていた。よくある街の古本屋のように、床に無維作に未処理の本が積みあげられているようなこともない。一冊一冊、丁寧にハトロン紙のカバーがかけられ、値段と書名のついた帯がかけられている。雑誌のたぐいは、ひとまとめにして手製の紙箱におさめられていた。  本棚と本棚のあいだにはさまれた、短い通路の奥に、レジがある。かたわらには、店には少々不似合な最新式のパソコンが置かれていた。 「あ、いた、いた。お久しぶり、文ちゃん」  そこに座っていたのは、最高級の和紙のように白い肌、墨のように黒い髪の、物静かな女性だった。黒いセル枠の眼鏡は、いかにも野暮《やぼ》ったい。しかし、見る目のある者なら、彼女の美貌《びぼう》を見抜けるだろう。飾り気のない、白いワンピースがよく似合っている。手には、本をよごきないように手袋。 「元気してる?」 「ええ……」  文子は、ほんのわずか顔をあげて、かなたにちらりと笑顔を見せた。そして、またうつむいてしまう。 「話は聞いてるか?」  八環の言葉に、彼女は黙ってパソコンのディスプレイを指差した。彼女は、たった今までパソコン通信にアクセスしていたらしい。  今という時代に適応し、都市になじんだ妖怪《ようかい》たちは、さまざまな新しいメディアを使いこなす。彼女が読んでいた電子メール(パソコン通信のネットワークを通じて送られる文章)には、今回の事件の経緯が詳しくつづられていた。送り手は、もちろん霧香だ。一どうやら、もとの文章を引用しながら、文子はRES(返事)を書いていたらしい。 『にゃほは〜ん、文ちゃんどぅぇぇす。こらまった、えらいことになってますねぇ。わたひとしても、できるかぎりのバックアップをいたす所存。ほーんにあのカップルも、ややこしいことじゃのう。どっちもプライド高くて意地っぱりじゃからな。未亜子も自分をいじめるのをやめればいいのにね。八環くんも、照れずに素直になればよかですのにねぇ』  そこまで読んだところで、画面が真っ暗になった。文子が、耳の先まで真っ赤に染めている。彼女の手は、パソコンの電源スイッチにかかっていた。 「いきなり電源落とすのはよくないぞ。文ちゃんとこ、ウィンドウズ入れてたっけ?」  八環がそう言ったのも、照れ隠しかもしれない。  そそくさと立ち上がった文子は、まだ耳を赤く染めたままで、本棚に近づいた。指が、本の背の書名をたどってゆく。  十冊たどり、五十冊たどり、百、二百、三百、千。背の厚みが一冊平均一センチとしたところで、もう十メートルに達している。入り口から奥のレジまで、かなたの足で五歩。けれど、文子がたどってゆく本棚はまだ続いている。  十分ほども、八環たちは待っていただろうか。やがて、文子が戻ってきた。 「はい」  うつむいたままで、一冊の本をきしだす。 『女妖伝奇考 山陰篇 日孔比呂《ひあなひろ》著』  白い帯にそう書かれている。実際の表紙は蛇の皮のようなもので装丁されて、書名はない。八環が受け取ると、自然にページが開いた。 『石見《いわみ》と出雲《いずも》の国境といふから、今でいふ島根県の海岸あたりに、赤ん坊を抱いた、人面蛇体の妖怪、濡れ女が出没したとの伝承がある。赤ん坊もまた妖怪であり、海赤子と呼ばるるらしひ。美しい女の姿に化けて若い男を襲ふたり、赤子の鳴き声で通りかかった娘を騙《だま》して喰《く》らつたりしてゐたと伝わってゐる。濡れ女と海赤子は、母と子であり、また夫婦でもあったとやら言ふものもあり』  八環の眉《まゆ》が、ぴくりと動いた。かなたも文子も、何も言わない。彼は読み進んだ。 『けれど、あるとき濡れ女と赤子が仲たがひをしたといふ。濡れ女は、赤子を幾度となく切り裂けど、赤子は心の臓を別のところに隠してをりしゆゑ、つひに死なずとか。濡れ女は怒りて、海原の底に石を積み、赤子を埋めたりと先人は伝ゆる。  赤子の浮気に嫉妬《しっと》でもせしゆゑか。げに恐るべきは女なるかな』  最後の文章を読んで、八環の眉あたりに、不穏な気配がただよった。本を握った手に、血管が浮かびあがっている。  文子が、あわてて彼の二の腕をつかんだ。力がこもっている。筋肉が固い。 「……わかってる。床に叩《たた》きつけたりしないよ」  八環が、音を立てて本を閉じた。文子が、するりと本を抜き取る。彼女は、静かに本を閉じると、いとおしげに表紙を撫《な》でてやった。 「この本の記述がほんとなら……あ、文ちゃんとこの本に間違いなんてあるわけないけど、じゃあ、あいつを、やっつけられないってことなの?」  かなたが、それを口にしたのは、もちろん第一の関心事だったからでもあるが、もうひとつ、未亜子の過去で八環が悩みはじめる前に、それから注意をそらすためでもあった。 「どこかにある心臓とやらを見つければ、滅ばせるんだろう。未亜子がそうしなかったのは、知らなかったからか。それとも……」 「知らなかったに決まってるじゃない!」  かなたは、あわてて口をはさんだ。 「未亜子さんに嫌われるような性格の悪いやつだもん。きっと、誰にも知らせずに隠したんだ  よ」 「かなたちゃん……あの……」 「文ちゃん、そりゃ証拠はないけど、絶対性格の悪いやつに決まってるよ」  かなたは、頬《ほお》を紅潮させて言い募った。 「争いってのも、未亜子さんが悪いことするのを止めようとしたんだ。根拠はないけど、今の未亜子さんを、あたしは信じてるもん」  文子は、うつむいたまま、もじもじ指をこすりあわせて言った。 「そうじゃなくて……あたしもそう思うわって……言おうと思って」 「あ、そうか。えと」 「ありがとう」  かなたが言葉に詰まっているうちに、八環がそう言っていた。 「俺《おれ》がそう思わなきゃいけないな。すまん」  八環に頭をさげられて、文子はくすりと笑った。 『また、珍しいものを見ちゃった』  かなたが、そんな気楽な感想をいだいていられたのは、ほんの一瞬だけのことである。 「それにしても、その心臓ってどこにあるんだろ。ねえ、文ちゃんとこに、そのこと書いた本ないの?」  文子は、小さく首をふった。白い前歯で下くちびるを噛《か》んでいる。敵がどうこうよりも、求められた本の在庫がないことが悔しいのだろう。 「誰か知らないかなぁ」  かなたの言葉に、八環が尖《とが》った鼻をこすった。何か思いだしたときの彼の癖だ。 「確か、有月のおっさんは、あのあたりの島の出身だとか聞いたことがあるな」 「そうか。よぉし、わかった」  かなたは、お気に入りのミステリー映画に出てくる、早とちりの警部の物真似でこう言った。 「酔っ払い親父《おやじ》が狙《ねら》われたのは、その心臓のありかを知ってたからだ!」 �知らなかったそうだぜぇ�  その声は、唐突に聞こえてきた。英語だ。  ぎょっとした三人の視線が、ガラス戸に集中した。声が、その方向から聞こえてきたからだ。  外は暗く、ガラスは明るい店内——といってもそれほど煌々《こうこう》としているわけじゃないが——のようすを映しだしていた。  鏡の中に、かなたの姿がある。八環も、文子もいる。  そして、もうひとり。  Tシャツを血に染めた、白人の青年だ。身につけているのは、後はグリーンの水泳パンツだけ。血のみなもとは、彼自身だった。頭部に、尖った大きなガラスの破片がいくつも突き刺さっているのだ。彼の髪が、もともとどんな色だったのか、もはや知るすべはない。  鏡のこちら側に彼はおらず、鏡の中にだけいる。もちろん、ガラス戸の向こうにいる姿が透けているわけではなかった。彼は、八環のすぐ隣の位置に立っていたのだ。店の、木張りの床に血だまりを作って。  白人の若者は、にやりと笑った。かなたは、吐き気をおぼえた。それほど、凄惨《せいさん》で、邪気に満ちた表情だった。 �俺を知ってるかい? クライブ・キャンディってのさ。クライブと呼んでくれ� 「なんだって? 何を言ってるんだ?」  八環が誰にともなく問いかけた。かなたが、嫌悪感を忘れて、顔をひんまげた。キャンディと名乗った男が口にしたのが、英語だったからだ。 「自分の正体を知っているかって……」  今にも消えてしまいそうな声で、文子が通訳した。そして彼女が、かたわらの本棚に手を伸ばす。文子が手にとった本には『血まみれの海水浴、ウェストコーストの都市伝説』という表題が書かれていた。 �へえ、俺のことが本にまで出てるとはね�  いかにもアメリカ人らしいイメージの、明るい口調で言う。クライブ・キャンディと名乗った鏡の中の影は、短く口笛を吹いた。  文子がページを開く。八環もかなたも、鏡の中の影から目を離すことはできなかったが、そこに何が書かれているのかを知ることはできた。文子が朗読したわけではない。勝手に、頭の中に情報が流れこんできたのだ。文子の妖術の一種に違いない。 『カリフォルニアの海が見える豪邸に、数人の若者たちが滞在していた。彼らは、大学の映画学科に通う若者たちで、夏休みの何日かを友人の家ですごしていたのだ。  あるとき、その家を数人の子供たちが訪れることになった。弟の誕生パーティのためだ。そこで、子供たちを楽しませようと一人がちょっとした工夫をした。  丈夫なガラスを、プールの中に渡しておく。綺麗《きれい》に磨きあげてだ。水の中のガラスは、誰も見えない。  要するに、水上を歩く大マジックショウというわけだ。これは大受けした。  ショウを終えて、彼らは屋敷に戻った。しばらくは、ピザとコーラを食べながら、楽しいおしゃべりの時間が続いた。  突然、悲鳴が聞こえた。続けて、何かが砕けるようなガシャンという大きな音。  みんな一斉に飛び出して、真っ赤に染まったプールを茫然《ぼうぜん》と見つめた。  誰もが、ガラスを片付けるのを忘れていたのだ。そして、プールには高い飛びこみ台がとりつけられていた。  もう、おわかりだろう。マジックショウのことを知らずに外出していた仲間が帰ってきたのだ。その日は、とんでもなく暑い日で、帰ってくるなりプールに飛びこもうとした。  彼が、水面下のガラスに気づいたのは、飛びこみ台を離れた瞬間。光の加減か、ぐんぐんと近づいてくる、映し出された自分の顔を見たときだった。  それから、数週間たって、彼らの大学に奇妙な噂《うわさ》が立った。  どこでもいいから、鏡に向かって、クライブ・キャンディと三度、死んだ学生の名前を唱える。そうすると、彼が死ぬ直前に見た光景が見えるのだ。  ただし、必ず三度だ。間違って四度呼んでしまったら、そいつの頭にもガラスが生えることになる……』  書物に記されていたのは、そんな話だった。マイナーな都市伝説だ。友だちの友だちから聞いた、嘘《うそ》のような本当のような話。みんながそれを信じれば、ときとして伝説は事実になる。口裂け女も、高速道路で追いかけてくる妖婆も、トイレの花子さんも、今でも存在していることを、かなたたちは知っていた。アメリカでだって、同じように妖怪《ようかい》が生まれてきてもなんの不思議があるだろう。 「ふうん。日本にも似たような話あるよね。トイレの鏡に向かって名前呼ぶとかさ」  というのが、かなたの感想だった。 「ずいぶん無理のある話じゃないか。とうてい、実際にあったとは思えんな」  というのが、八環の感想だった。文子が、消えいりそうな口調ながら、うつむいたままで律義に通訳してやる。クライブ・キャンディは、くすくすと笑った。 �ところが、信じたやつが多かったんだな。で、俺は生まれちゃったわけ。もっとも、今じゃ呼ばれなくても参上できるし、相手が間違ってなくてもガラスで刺せる、こんな風に�  クライブ・キャンディは、自分の頭からガラスを抜き取ると、それを鏡の中に映った八環の虚像の肩に突き刺した。そのあいだ、ずっとにこやかな笑みを浮かべたままで。  同時に、鏡のこちら側にいる八環の肩からも血が吹きあがる。 「なんだと?」  何が起きたのか、とっさに誰もわからなかった。鏡の中で、クライブ・キャンディが再度ガラス片を振りあげる。八環は、わけのわからないままに腕をふりあげて、それをふせごうとした。  鏡のこちらの彼は、そうしようと考えた通りに、腕をふりあげた。けれど、鏡の中にいる八環は、そうはしなかったのだ。  八環の胸が切り裂かれる。だらしなくしめられていたネクタイの先端が切り落とされ、よれよれのシャツが血に染まった。クライブ・キャンディのガラス片は、切り裂きジャックの剃刀《かみそり》なみの切れ味を備えていたのだ。 �死んでもらうぜぇ� 「あんた! 海赤子の手先ねっ」  かなたが怒鳴った。言葉が通じていないはずなのに、やりとりが成立している。  化け狸の少女は、とっさにあたりの本をガラス戸に投げつけようとした。その腕を、文子が掴《つか》んで止める。意外に力が強い。 「こんなときだし許してくれない?……わかったわよ」  かなたは、かたわらのレジから、封を切っていない百円玉の束を取り出して、ガラス戸に投げつけた。  そのあいだにも、八環巷一度切りつけられている。  硬貨の束は、ガラス戸にぶつかった。血まみれの光景は粉々になる……はずだったのだが。 「どうして?」  ガラス戸は、まるで鉄でできているかのように、重みをはじきかえしたのだ。 �駄目、駄目。俺が映ってる鏡は丈夫になるんだよ。水鏡だって、壊れないくらいなんだぜ�  ひゃっほうと、陽気な声をあげる。言葉の意味はわからなくても、ニュアンスは伝わっただろう。かなたは、クライブ・キャンディを睨《にら》みつけた。  まだ、くじけていない。ただし、次に動いたのは彼女ではなく、八環だった。 「これなら、どうだっ!」  人間変身の妖力を解けば、一瞬にして真の姿に戻る。なかばが鴉《からす》、なかばが人の頭部に、背中から伸びた黒い翼。  その翼が、風を渦巻かせた。急激な空気の運動が、小さな真空地帯を作りだす。俗にいうカマイタチ現象である——本当の鎌鼬《かまいたち》もこの世界には存在するが——。  見えない刃が、ガラス戸に叩《たた》きつけられた。びりびりと震えはしたものの、ひび一つ入りはしない。 「こいつは、俺が食い止める。かなたは、文ちゃんを連れて逃げろ!」  八環は、そう叫んだ。 「でもっ!……あうっ」  かなたが悲鳴をあげた。頬《はお》に小さく血がにじんでいる。クライブ・キャンディが、鏡の中で、ガラスの刃を手にして笑っていた。  いつのまにか、やつはかなたの横に回りこんでいた。裏口へと通じる途上だ。逆に言えば、正面は開いていることになるが、クライブ・キャンディが映りこんでいるガラス戸が、簡単に開くとも思えない。 �逃げられないよ。俺《おれ》は、契約はきちんと果たすほうなんだ、こう見えても。これまで何百人と殺してきたけど、契約違反は一度もしたことない。子供が泣き叫んだって、恋人同士がかばいあったって、手加減したことないのが自慢�  にやりと笑って、クライブ・キャンディが片方の目をつぶる。八環とかなたは、余裕綽々《よゆうしゃくしゃく》の敵の姿に、拳を握りしめた。ここで、理由もわからずに倒されるわけにはいかない。けれど、どうすればいい? �そうなのう。契約社会だもんねぇ、アメリカってばさぁ。冷たいもんだと、あたくしなんぞは思ってしまうのですけど�  突然、大きな声で文子がしゃべりだした。かなたも八環も、ぎょっとした顔で彼女を見つめている。英語だから意味はわからない。陽気そうな口調だ。恐怖で、どこかネジでもはずれたのかとも思った。  だが、そうでないことは、彼女の目を見ればわかった。  文子の視線は、鏡を見てはいない。彼女の眼鏡に、戦いのまきぞえをくらって、汚され、破かれた書物たちが映っている。 �それも必要だからなんでしょね。でもねぇ、わたいたちも、あんたに倒されるわけにはいかないんだわさ。日本ってゆーのは、ギリとニンジョウの社会なの。あなた、知ってる?�  義理と人情というところだけ、文子は日本語を使った。八環とかなたは、何が起こっているのかわからず、身構えたまま、目を文子とクライブ・キヤンディのあいだで往き来させている。 「ワッタシ、ニホンゴ、ワカッリマセ〜ン」  わざとらしいアクセントで、クライブ・キャンディが答える。やつは、まだ笑っていた。けれど、文子の顔からは陽気さがぬぐいさられている。 �それはね、友だちを見捨てないっていうことなの�  シリアスな口調でそう言うと、文子はゆっくりと眼鏡をはずした。束ねられていた髪が、勝手にほどける。  壮絶な美貌《ぴぼう》が、あらわになった。  彼女の、白い手が、本棚の書物に伸びた。人差し指と中指、みがきあげられた白い大理石でできたような指を、二本そろえて背表紙にかける。  取り出した本は、真っ白だった。開かれたページも、真っ白だ。 �なに?�  何か不穏なものを感じて、クライブ・キャンディがガラス片をふりあげた。実像の世界にいるかなたと八環が、彼女をかばおうとする。しかし、虚像の中の二人は動かない。クライブ・キャンディは、なんの妨害も受けることなく文子に近づくことができた。  しかし、クライブ・キャンディがガラス片をふりおろすよりも、文子が本を読みあげるほうが早かった。 「その男は動かなかった」  クライブ・キャンディの腕が、文子に届く寸前でぴたりと止まる。  そして、たった今文子が読みあげたそれと寸分たがわぬ文章が、真っ白だったページに浮かんでいた。日本語だ。 「彼は、悩んでいたのだ。これから、自分がどうするべきかを」  文子は、言葉を続けた。黒い活字が、次々にあらわれる。声は低く、聞き取りにくいものだった。 「自分は、この世に存在しないほうがいいのかもしれない。けれど、どうすれば死ねるだろう」  クライブ・キャンディの顔には、まだにやにや笑いが貼《は》りついている。けれど、その目だけは、恐怖に歪《ゆが》んでいた。生まれてはじめての恐怖に。 「どこかを、これで刺せば死ねるだろうか。脳は無駄だろう。喉《のど》を切り裂くのか、それとも日本風に腹切りでもしてみようか」  文子の言葉にあわせて、クライブ・キャンディの腕が動く。ガラス片の先端が、頭に、喉に、腹部に向けられる。  かなたと八環は、息をするのも忘れて、そのようすを見つめていた。見ている以外に、彼女たちに何ができただろう。 「それとも心臓だろうか」  文子が、そう読みあげたとき、クライブ・キャンディの恐怖は最高潮に達した。けれど、彼は悲鳴をあげることすらできない。文子は、彼が何を恐れているのかを見抜いた。  そして、彼女はこう読みあげた。 「心臓だ。ここを抉《えぐ》れは楽になれる。そう思った彼は、もはやためらうことはなかった」  みずからの存在が消滅する最期の一|刹那《せつな》まで、クライブ・キャンディは笑いを消すことを許されなかった。 「ごめんね。可哀《かわい》そうなお友だち」  そう言って、文子は本棚の、汚された書物たちをそっと撫でた。八環とかなたは顔を見合わせて、とりあえず苦笑いをしてみた。他に、どんな表情をすればいいのか、わからなかったからだ。  汚された本を片付けるのに、十分ほどかかった。その後で、店の奥に通してもらう。文子は、この店で暮らしているのだ。店の奥には台所と小さな居間、そしてトイレ。二階には寝室がある。居間も台所も、あらゆる隙間《すきま》が本で埋っていた。おそらく、他のどこも同じようすだろう。  気分直しにと言って、かなたが外に出て缶コーヒーを買ってきた。もちろん、他に敵がひそんでいないかどうか確かめる役目もあった。  隠れられていれば、どうせ見つけられないから、囮《おとり》としてである。だが、反応は何もなかった。クライブ・キャンディは独りだけで刺客としてやってきたらしい。  並みの相手なら、確かにバックアップなど必要ないだろう。 「……さっきの本の著者に、共感できそうな気になってきたな」  甘ったるいコーヒーをすすりながら、八環が思い出したのは『げに恐ろしきは女なり』という一節である。  霧香が気をつけるように言ったのは、文子を守れという意味ではなくて、巻添えを喰らわないようにということだったのか。 「馬鹿なこと言ってる場合じゃないって。海赤子のやつ、かなり心臓のありかを知られるのを怖がってるんじゃない。だから、知ってそうなひとを無差別に襲わせてるのよ」 「あいつを送ってきたのが……」  八環のたしなめの言葉を、かなたは容赦なくさえぎった。 「海赤子以外にいるとでも? やたさんが、慎重になるのもわかるけど、やりすぎはなんにせよ体に毒だよ」 「そうだな。ただ、何年も封じられてたはずのやつが、どうやってあんな殺し屋|妖怪《ようかい》を雇えたのかが、気になったんだ」  今日、何度目になるかしれない苦笑いを浮かべて、八環は缶コーヒーを床に置いた。それを灰皿代わりにするつもりで、煙草をとりだす。けれど、いくらはじいてもライターは火をともさなかった。 「やたさん、ここ、文ちゃんのお店の中」  かなたがやんわりという。稀文堂《きぶんどう》の中では、いっさい火は使えない。 「そんなことも忘れてるくらいじゃ、かなり動揺してるね、やたさんも」 「かもしれん」  真剣な顔つきでうなずいて、八環はライターをポケットにおさめた。 「これから、どうする?」  かなたの問いに、八環は腕を組んで考えこんだ。いらだたしげに、煙草を噛《か》みしめている。これがないと、考えがまとまらないのだ。 「ねえ、文ちゃん。海赤子のやつをおびきだしてさ、さっきの術で、心臓のありかを白状させるっての、どう?」  指を鳴らして——あまり景気のいい音ではなかったが——、かなたが言った。けれど、ちょこんと畳の上に座った文子は、小さく首をふった。 「あの術ね……ここでしか使えないの……それに……」 「え?」  かなたは、耳を文子の口もとに近づけた。 「なんだって?」  八環が、複雑な表情のかなたに問いかけた。 「使った後、とっても恥ずかしくなるから嫌だって」  それだけではなくて、と文子はつけくわえた。自分が読みあげられるのは知っていることだけだ。文子が知らないなら、質問の答えを口にさせることはできない。彼女が『誰それはこう言った』と読みあげた通りの言葉を口にさせることができるだけなのだ。文子は、本の内容どおりの白昼夢を見せて、幻想の中に敵を捕らえることもできる。しかし、それも今は役に立たない。誰かが、海赤子と濡《ぬ》れ女の過去を再現するような本でも書いていてくれれば話は別なのだが。 「文ちゃんはそうだし、霧香さんも心臓のことなんて知らないよね。まったく、ちゃんと調べてから襲えっていうのよ」 「向こうにも、そんな余裕はないんだろう。まわりの俺《おれ》たちを片付けてから……くそっ、どうするつもりだ。未亜子とよりでも戻そうっていうのか?」  八環は、どんと床を殴りつけた。 「あいつの狙《ねら》いは未亜子だ……。だから、あいつは身を隠したのか?」 「未亜子さんをあぶりだすために、古い友だちから順に襲ってるのかもしれない」  かなたが、またもや手をぽんと叩《たた》く。 「それなら、このまま海赤子を倒してしまうか……」  そう呟《つぶや》いた八環の表情は、苦しげだった。 「一度は未亜子が愛した相手だ……いや、今だってあいつが苦しんでるのは……」 「話しあいの余地をなくしたのは向こうのほうだからね。大丈夫、誰も八環さんが、やきもちやいてやっつけたなんて思わないから」  作りものの笑いを浮かべてかなたがそう言った。八環の手がはねあがって、彼女の襟を、すごいいきおいで掴《つか》む。逆光で、かなたには八環の表情が見えない。  すぐに離した。 「妬《や》いてるよ、俺は……。そういうもんさ。ただし、このイライラは禁煙のせいだけどな」  そう言って、八環はぴんとくわえた煙草をはじく。そして、かなたの頭を撫でた。 「そうだな。あいつのほうから売ってきた喧嘩《けんか》だ。買ってやるべきだろうが……勝てん喧嘩ってのが難点だな。だからって、クーリングオフもきかない」  八環は、そう言うと、にやりと笑ってみせた。かなたは、義理で笑い返すと、頭の上で腕を組んだ。 「やっつけるのは無理でも、封印はできたんでしょ? また、そのうちに出てくると思うと困るけど……」  そこで、かなたは組んだ腕をおろした。顔つきが、真剣なものになる。もちろん、今まで、ずっと真面目《まじめ》だったが。 「ねえ、もしかして、未亜子さん、心臓を取りにいったんじゃない」  かなたの言葉に、八環は複雑な表情をちらりとだけ見せた。安心したような、そんな自分を恥じるような。そして、すぐに苦々しげな顔に戻った。 「知らなかったから封印したんじゃないかもよ。昔は情もあったから、封印だけで止めたけど、今度のことでとうとう愛想がつきて、さ」 「可能性はある……。あいつに、手を下させるわけにはいかない。俺が……」  八環は立ちあがろうとして、途中で止まった。といっても、どこに行けばいい?  そのとき、文子が、ちょんちょんとかなたをつついた。 「なに? あ、また、その本?」  彼女の手には、また蛇の皮で装丁された本があった。『女妖伝奇考 山陰篇』だ。 「あっ、そうか……。昔のことだもんね、そんなに離れたとこに行くわけないや。きっと、心臓が隠してあるのは住んでたとこの近所だよ!」 「すまん、これ、貸しておいてくれ」  かなたと八環は、大急ぎで立ちあがった。八環は、『女妖伝奇考』を掴んでいる。  飛びだそうとするかなたの手首を、文子が握った。 「え? 何? 大丈夫だよ、連中も、あたしたちを襲ってこないだろうし。文ちゃんこそ、気をつけてね」  そうじゃない、と文子は首を左右にふった。彼女の、もう片方の手には、二冊の本が握られていた。すべての交通機関のダイヤを網羅した時刻表と、中国地方のドライブマップだった。 [#改ページ]  8 古き国へ  翌朝、かなたと八環は、飛行機で島根県に向かった。夜通し車を走らせたり、長距離の空間転移能力を持った妖怪《ようかい》に頼むよりも、こちらのほうが早いと判断したのだ。  東京から、およそ一時間二十分。飛行機はなにごともなく、出雲《いずも》空港に到着した。 「どしたの? なんか、顔色が悪いよ、やたさん。大丈夫?」 「自分の羽以外のもんで空を飛ぶのは健康によくない」  八環は、憮然《ぶぜん》としてそう答えた。飛行機に酔ったのだと言いたいらしい。 『そういうことにしときましょうか』  かなたは、何も言わないことにした。多少精神的な疲れもあるんだろうと思ったが、指摘してもなんの役にも立たない。誰だって、いつも強くはいられないのだ。  八環は、羽田までの途中で色の濃いサングラスを買いこんでいた。ますます怪しい雰囲気だ。日差しが強いわけではない。なぜ、八環がサングラスをかけているのかも、かなたは詮索《せんさく》していない。たぶん表情を隠したいんだろうとは思った。どうして、隠したいのかまでは考えないことに決めたのだ。 「ここが未亜子さんの生まれ故郷ってわけね。えーと、迎えの人は……」  かなたは、きょろきょろとあたりを見回した。  まわりに何もない、小さな空港だ。そのロビーには、現地の妖怪ネットワークから迎えが来てくれているはずだった。  すぐに見つかった。  小さな旗をふりまわしている、ふくよかな小母《おば》さんである。旗には <松屋旅館> という名が染められていた。 「えと……あなたが?」  少し恥ずかしい思いをしながら、かなたが声をかけた。団体旅行みたいな扱いである。 「あなたたちが、八環さんにかなたちゃんだね。あたしが、 <松屋> の渡橋《わたはし》八重《やえ》」  ふっくらしたほっぺたを、ますますゆるめて、その小母さんが言った。  この島根県に本拠を置く妖怪ネットワーク、 <松屋> の重鎮で、その拠点である旅館 <松屋> のおかみ。そう聞いていたから、もっと切れる雰囲気の美人を予想していたのだが、八重の見た目はどこにでもいそうな小母さんだった。まあ、体格は確かに重鎮の呼び名にふさわしいものだったが。  こざっぱりしたブラウスに、ニットのカーディガン、それからズボン。間違っても、パンツやスラックスではない。ズボン、だ。 「あ、あの、はい、そうです。えっと、よろしく」  かなたは、戸惑いながら頭をさげた。大きな肩かけバッグがずれて、バランスが崩れる。八環が、支えてやりながら頭をさげて挨拶《あいさつ》した。 「なんか、大変なことになってるらしいねえ」  こっちこっちと腕を引っ張りながら、八重はかなたに話しかけた。 「うわっ、とっとっと。そ、そうなんです。解決するためには、どうしても見つけないといけない人がいて」  かなたは、よろけながらそう答えた。 「ま、あたしがついちょうけん。大船に乗ったつもりでまかしときなさい」  八重はどん、と大きな胸を叩いた。 『なんか、うらぶれた甥《おい》っ子をお見合いの席にひきずってくる親戚《しんせき》の伯母さんって感じ』  という、えらく具体的なかなたの直感は、あながち間違いではない。  渡橋八重の正体は、出雲大社の注連縄《しめなわ》の付喪神である。出雲大社は、縁結びの神として信仰されている。その注連縄である彼女は、独身の男女を結びあわせることが、自分の使命だと心得ているのだ。  彼女のなまりを聞いて、かなたと八環は、重傷を負わされたという有月のことをふと思い出した。かなたのほうは、海赤子への怒りを単純に燃やしていたが、八環は複雑な心境だ。もしかして、彼は自分の身代りになったのかもしれない。  二人がそれぞれの思いにひたっているあいだに、八重は、空港を出て、近くのレンタカーショップまで案内してくれた。手早く手続きをすませて足を確保してくれる。  キーを受け取り、車のある駐車場まで歩きながら、会話は続いた。八重は、このレンタカ−屋には顔が利くらしく、店員はついてこない。 「いなくなった彼女とよりを戻すために、こげなところまで追いかけてくるとは、たいしたもんじゃないの。男と女をくっつけることなら、この八重さんにまさる相手はいないけん、安心なさい」  八環は、鋭い瞳《ひとみ》を、黒い偏光ガラスの後ろに隠しこんで、何も言わなかった。 「あのね、渡橋さん」  かわりに口を出したのはかなたである。 「八重さんと呼んでちょうだいな」 「じゃあ、八重さん。これはね、そーゆー問題じゃなくってね……」 「そういう問題よ。要するに三角関係じゃないの?」  さすがに年の功。遠慮がない。かなたたちの口を封じておいて、続けるのかと思わせておきながら、八重は悠然と話題を変えた。 「霧香さんってゆうたっけ? 昨日の晩に知らせをもらって、組合に訊いてみたんだけど、らしいひとの予約はどこにも入っちょらんみたいなのよ」  この組合というのは、妖怪たちとは関係ない、旅館・ホテルの同業者組合のことである。 <松屋> は小さな旅館だが、長年続いていて、八重もかなり顔が利く。 「昨日の寝台特急 <いずも> で今朝着いてるはずだし……、ふつうの旅館なんかは使わないんじゃないかな」  かなたの言葉に、八重はこっくりとうなずいた。 「そうなのよねぇ。で、他のネットワークにも聞いてはみたんだけど、なんていうかねぇ、みんな忙しくってねぇ。なかなか動けんのよ」  今まで威勢のよかった八重が、急に歯切れが悪くなった。  このネットワークは、もちろん妖怪ネットワークだ。出雲は古い文化の栄えたところだ。東京や大阪に出ていった妖怪——たとえば未亜子や有月のように——も多いが、まだかなりの数が居残っていた。妖怪たちのネットワークも複数ある。  ちなみに <松屋> ネットワークは、出雲大社に祭られている大国主命《おおくにぬしのみこと》を元締めにした、日本中の神社に関係した妖怪たちの——はっきり言えば八百万《やおよろず》の神々のネットワークなのだ。かなたたち、<うさぎの穴>とは、これまで直接のつきあいはなかった。けれど、<うさぎの穴>とは親しい <海賊の名誉> 亭ネットワークとは、何度となく協力しあっている仲だ。 「まあ、仕方ないでしょう」  八環が、とりなすように言った。かなたの肩をぽんと叩《たた》いてやる。  忙しいというのが言い訳でしかないことは、かなたにも八環にもわかっていた。八環のほうは、だからといって、そんなことで怒ろうとも思わないが、かなたのほうはさすがに不満そうだ。  妖怪たちのネットワークは、それほど緊密なものではない。いつも、連絡をとりあっているわけではないし、互いを助けあうといっても、頼りになるのは、それこそ義理とか人情といったものだけなのだ。まして、へたにかかわれば、海赤子に目をつけられる。かつてを知っていればいるほど、口が重くなるというものだろう。見も知らぬ相手に、好意だけで危険を冒してくれるものではない。  ネットワーク同士のつながりがあるとはいえ、八重の態度のほうが珍しいのだ。  だから、八環は他のネットワークの態度を気にしたりはしなかった。かなたのほうは、さすがにそこまで悟りきれるほど経験を積んではいないので、口をへの字に曲げている。言葉にしてしまうほど未熟でもないけれど。  八重は、柔らかい微笑《ほほえ》みを浮かべて言葉を続けた。 「古いひとにいろいろ訊《たず》ねてみたんだけど、誰も知らんのよ。あの海争いにかかわっちょった連中は、たいがいそのときに死んじゃってるし、陸のほうとは交流がなかったけん」  ここまで聞いたところで、車にたどりついた。渡された鍵《かぎ》で、八環がドアを開く。 「他にも何かわかったら連絡するけん。そっちも、特にこのへんがあやしいってわかったら連絡してちょうだいな」  そう言って、八重は携帯電話を貸してくれた。 <松屋> の電話番号が記されたメモがそえられている。 「このへんじゃ、すぐに圏外へ出ちゃうけどね。悪いけど、今日から修学旅行の学生さんが来るもんで、あたしは動けんのよ」  八重は、心の底からすまなさそうな顔つきだった。けれど、それと同時に、うずうずしている好奇心が目の底にかいま見える。 「いえ、とんでもない。ここまでしてもらって、これ以上は甘えられませんよ」  八環は、あわててそう言った。こめかみに汗でも浮かばせそうな表情だ。世話好きなおばさんというのは、あまり得意なタイプではないらしい。かなたにしても、それは似たようなものだ。ぴょこんと頭をさげると、急いで助手席に乗りこんだ。バッグを後部座席にほうりこむ。八環も、急いで車に乗りこんだ。カローラだった。キーをさしこんで、エンジンを作動させる。 「では、とりあえず、これで。また連絡します」 「あら、そう」  途中で、八重は一瞬残念そうな顔つきになったが、すぐに破顔した。 「それじゃあ、頑張ってね。おなか減ったら、これでも食べてちょうだい」  うなりだしたエンジン音に負けないように声をはりあげて八重が言った。彼女がさしだしたのは、二段重ねの重箱だ。 「あ、すいません」  かなたの笑いは、今度は愛想笑いではなくて、心からのものだった。 「じゃあ、また、よろしく」  小さく会釈すると、八環はアクセルを踏みこんだ。  遠ざかっていく車を見つめながら、八重は呟《つぷや》いた。 「あの海赤子が、まだ生きちょったとはね。誰を応援すればええんかしらね、いいカップルができあがるには」  この台詞《せりふ》からして、彼女は、電話で知らされた以上の事情を心得ているようだ。この土地で、数百年の寿命を重ねてきたのだから、海赤子と濡《ぬ》れ女の噂《うわさ》を聞いていても不思議はない。だが、それなら、なぜ八環たちにそのことを口にしなかったのか。  渡橋八重は、空港の駐車場に止めてあったスクーターにどっこらしょと重たそうなお尻《しり》を乗せて、軽快に走りさっていった。  八環たちは、一刻も休まずに車を走らせ、あるいは駆けまわった。もらった弁当を食べるのも、車の中だ。  未亜子が、この島根県の——あるいはそのごく近くの——どこかにいるというのは、じつのところ推測にすぎない。大きな土地ではないし、人口も少ないとはいえ、旅行者として訪れたはずの一人の女の足跡をたどるのは、容易ではない。  手がかりは、『女妖伝奇考』の記述くらいだ。海赤子の心臓を取りに来たのだとすれば、かつて彼らが出没していたあたりを探ってみるのも手だろう。雲を掴《つか》むような話だが、他に道はない。彼らは、かつての出雲《いずも》と石見《いわみ》の国境、つまり今の島根県のちょうど真ん中あたりに向かった。海岸に向けて、聞きこみを続ける。  ヤマカンが当たった。  その日の午後には、車の中で、こんな会話をかわすことができた。 「当たったね、八環さんの勘」  いくつかの駅で聞きこみをした結果、未亜子らしい女が乗った電車をつきとめることができたのである。 「勘ってほどのモンじゃないだろう。まあ、あれこれの取材につきあった経験が、少しは役に立ったようだけどな」  勘よりも役立ったのは、八環が以前仕事をしたことのある——彼は山岳カメラマンという肩書を持っているが、ピンチヒッター的になんでも撮る——週刊誌の名刺だろう。  それに、かなたの変身だ。落ち着いた雰囲気の二十代後半の美人に化けたのである。不精髭が浮いている上に、真っ黒なサングラスの八環はうさんくさくても、典型的なキャリアウーマンがフォローすれば、なんとか信用してもらうことができた。 「かなり絞れてきたわね」 「ああ……。あとはおりた駅を探すだけだ。無人駅でないことを祈ろう」  サングラスのおかげで、表情は読めないが、はげまして悪いことはないだろう。 「なんとかなるわよ。急ぎましょう。道は空《す》いてるし、少々飛ばしても文句はいわれないわ」  かなたの言葉に、八環は今日はじめて、くちびるをかすかにほころばせた。 「しかし、不思議なもんだな。そういう格好していると、話す言葉までおとなびて聞こえる」 「大人びて、ねえ。う〜ん、喜んでいいの、それ? ふだんが子供っぽいって意味なのか、それとも、今がおばさんくさいってことなのか」  ずっとむっつりとしていた、八環のくちびるがさらにほころんだ。 「確かに落ち着いてるな。いつもなら、とっくにどっちかに決めつけて、喰ってかかってきてるじゃないか」 「あら、そうかしら」  これは少々わざとらしい。けれど、おかげで八環の微笑みが、また少し大きくなった。 『よかった、よかった。こうじゃないとね。いくらなんでも、肩がこっちゃうよ』  実際には、かなたもすでにかなりの年月を生きているから、おとなびた口調であっても不思議はないのだ。  けれど、感情の動き、口調、性格などの心の中身は、どんな姿に変身しても、たいていは十代の少女のそれだった。彼女がふだんとっている人間の姿が、まるでかなたにとっての真実であるかのように。今日、こんな風なのは、八環の面倒を見なければと気負っているせいだろうか。女というのは、男に対してはどこか母親になってしまうものなのかもしれない。  窓の外の風景が、後ろに流れてゆく。ウインドウをおろしてみた。風が、かなたの髪をなぶっている。  八環が、手を伸ばしてカーラジオのスイッチを入れた。ニュースがはじまっているはずだ。どんなことでも手がかりになる可能性はある。 『続いては天気予報です。大型で強い台風二九号は、このままの進路ですと、今夜半には東京に上陸するものと見られています。この影響で海と空の便はすべて欠航……』 「あ〜あ、まいったなあ。朝出てくるときは、なんともなかったのに」  かなたがぼやく。今、彼女たちの頭上には秋晴れの空が広がっていた。 『……現在東海道新幹線は三島〜東京間で運転をみあわせており……』  八環は、スイッチをオフにした。腕時計が少し遅れていたらしく、ニュースはすでに終わってしまったようだ。日本も案外広い国。東京では嵐でも、こちらは秋晴の空が広がっている。 「やたさん、ちょっと止めて」  かなたは、静かな声で言った。 「あそこに公衆電話がある。ちょうどいいから、ちょっとかけとこう」  このへんは、やはり携帯電話の範囲外らしく、少し前に電話したら通じなかった。 「ああ」  八環の顔から、笑いが消える。それを見て、かなたがくすりと笑った。昼前に一度連絡したときには、ワイドショウのレポーターさながらの質問攻めにあったのだ。 「ちょうどいい、煙草も補給しておくか」  畑のあいまに、ぽつぽつと家がある。その途中に、コンビニ——よろず屋と呼びたい雰囲気ではあるが——があって、その店先に電話があった。今どき、ダイヤル式である。  かなたは、ちらりと電話の向こうに視線を投げかけた。片隅で週刊プレイボーイのグラビアを立ち読みしていた、ニキビ顔の二人の中学生——それとも高校生だろうか——たちが、肘《ひじ》で脇腹《わきばら》をつっつきあって囁《ささや》いている。  少年たちの視線に応《こた》えて、思わず、片方の手で胸を支えるようなポーズで、受話器をとりあげてしまうかなたであった。もちろん、化けるとき、体形もスーパーモデルなみにしてある。  苦笑いを噛《か》み殺しながら、八環は店に入ろうとした。 『煙草の他に、夕飯も仕入れとくか』  そう思った彼の耳に、学生たちの会話が聞こえてきた。 「今日はついてるよなぁ。朝と昼と二回も美人見ちゃったよ」 「でも、俺《おれ》は朝、祖母《ばあ》ちゃんのとこに来た人のほうが好みだな。あの人のほうが、胸がでっかかったもん」 「そうだけど、あそこまでいっちゃうとなぁ。おれ、こっちの人くらいが好みだな。あのひと、神秘的すぎてなんか怖い」 「おうおう、文学的ひょーげん」  彼らの言葉を聞いたとき、八環は身をひるがえしていた。世の中に、神秘的な美人というのは山ほどいるだろうが、訊《たず》ねて損にはなるまい。 「すまんが、きみたち。その美人ってのは、色の白い髪の長い女だったか?」  尋ね人をするんだから、写真のひとつも欲しいところだ。まして、八環はカメラマン。ふつうなら、未亜子の写真くらい何枚でもあるだろうと考える。  しかし、生憎《あいにく》なことに妖怪《ようかい》たちはカメラにとらえられない。どういう原理かは不明だが、あらゆる機械的な探知装置は、妖怪の姿を捕らえることを拒否するのだ。彼ら自身が、そう望まないかぎり。  未亜子が、そうすることを願わなかったから、八環は彼女の写真を持っていなかった。  彼女は、自分の姿を記録に残すことを嫌っていたのだ。今思えば、それは誰かに見られては困るからだったのかもしれない。決して出てきはしないはずの、けれど決して死ぬことはない誰かに。 「どうなんだ? 違うのか?」、  問いかける八環の口調に、自然とあせりがあらわれていた。 「胸が大きくて、背もかなり高い。唇が真っ赤で、やたら色っぽい女じゃなかったか?」  学生たちは顔を見合わせている。やがて、片方——ニキどの少ないほうが八環の顔を睨《にら》みつけて言った。 「な、なんだよ、おっさん。俺たちに喧嘩《けんか》売ってるわけ」  語尾が震えているが、八環のサングラスを正面から見据えている。 「俺たちに変なことしたら、警察に行くぞ。あ、あんな美人、ヤクザなんかに渡せるか」  もう一人——ニキビの多いほうが、せいいっぱい突っ張った声で言わずもがなのことを言った。これでは、知っていると宣言したようなものだ。 「お前らなぁ」  八環が、あきれた声をあげたときだ。 「ごめんなさい、きみたち。このひと、あせると乱暴な感じになるけど、悪い人間じゃないのよ。あたしたち、週刊誌の者なんだけど」  割りこんできたのは、もちろん、かなたである。 「ほら、名刺だして、名刺」  かなたに脇腹をつつかれ、憮然《ぶぜん》とした顔つきで、八環はくたびれた背広の内ポケットを探った。端っこのよれたのを一枚きしだす。 「ほんとに?」  少年たちは、名刺に書かれた雑誌の名前と、すぐそこのスタンドに置かれたその最新号を見比べている。 「本当だ。あ〜、こういうのも持ってる」  レンタカーに戻った八環は、やはり後部座席にほうりこんであった小さなバッグから、カメラを取り出してきた。プロ仕様であることは、素人でもわかるだろう仰々しい代物《しろもの》だ。このバッグは、いつでも呼び出しに応じて取材旅行に出られるようにセットしてあるやつだった。カメラも、はったり用のがほうりこんである。 「信じてもらえたか? すまんが、今日はくばりすぎてて、もうなくなりそうなんでな」  八環は、名刺をひょいと少年たちの手から抜き取った。 「そうなのよ、あたしのは、もう尽きちゃって。どうしてか、みんなあたしの名刺ばっかり欲しがるのよねぇ」  そう言いながら、ショートヘアをかきあげる。世慣れた男相手では、とうてい通じそうもないが、この少年たちにとっては充分色っぽく感じられたらしい。 「わ、わかったよ。でも、やっぱりなぁ」 「ああいう美人をマスコミの餌食《えじき》にすんのもさぁ」  顔を見合わせてうなずきあう。 「そんなこと言わないで。詳しいことは言えないんだけど、彼女に迷惑はかからないわ。ううん、じつを言うとあのひとを助けるためなの」  この一言に嘘《うそ》はない。まっすぐに自分たちを見つめるかなたの瞳《ひとみ》。少年たちは、ごくんと唾を飲みこんだ。  赤く染まった顔をごまかすように、ニキビの多いほうが言った。 「ねえ、取材費、でるの?」 「ばか、せこいこと言うんじゃねぇよ」  すかさず、残った片方が、相棒の後頭部に軽い一撃を入れる。 「俺、詳しいことは知らないんだ。朝、学校への出掛けに祖母《ばあ》ちゃんのとこに来たひととすれちがっただけだから」 「じゃあ、きみの家に案内してくれる?」  かなたの言葉に、少年は思わず笑みをくちびるに浮かべていた。ニキビの多い相棒が、うらやましそうな顔つきになる。  しかし、少年の顔は、すぐに曇ってしまう。 「でもなぁ、祖母《ばあ》ちゃんに話聞いても、どうかなぁ。ちょっとボケ入ってるかもしんない」  少年の言葉に、相棒がけげんそうに口をはさんだ。 「なんで? お前んちの祖母《ぼあ》ちゃん、しっかりしてるじゃねぇの」 「だってさ」  それに続いた少年の言葉が、八環を蒼《あお》ざめさせ、かなたの顔を紅潮させた。 「祖母《ばあ》ちゃんたら、そのひとのこと、母さまなんて呼んでるんだぜ。どう見ても、祖母《ばあ》ちゃんの三分の一くらいの年なのにさ」  その老女がボケていないとすれば、それは訪ねてきた相手が、老女の若い頃からずっと同じ姿で生きているということになる。 「きみ、すぐにお祖母《ばあ》さんにあわせてくれ」  掴《つか》みかからんばかりの八環のいきおいに、少年はがくがくとうなずいた。今度はもう、対抗しようと突っ張ることができる余裕もないほどの、八環の迫力だったのだ。 [#改ページ]  9 娘が母を語る日  少年の家は、そこから自転車で十五分ほどのところだった。  車で送ろうといったのだが、後でとりに戻るのが面倒だということで、彼らの後をゆっくりついていくことになった。理由をこじつけすらせずに、ニキビの多いほうもついてきた。  大きな、古い農家が彼の家だった。祖母は、裏の畑に出ているという。 「祖母《ばあ》ちゃん、お客さん。朝のひとのことで聞きたいことがあるんだってさ」  かなたは、六十歳くらいだろうかと思った。髪は真っ白だが、腰はまっすぐに伸びている。 「はあ、なるほど。天狗《てんぐ》さまってのは、あなたさんですか」  皺《しわ》だらけの顔をくしゃくしゃにして、老女は笑った。  かなたは、ぎょっとして意味もなくあたりを見回した。八環は平然としたようすだが、口もとの煙草から灰が落ちかけていることに気がついていない。 「また、もう祖母《ばあ》ちゃんは。なんだよ、天狗って。ほんとにボケがはじまったんじゃないだろうな。もう八十越えてんだから」  さっきの驚きよりは小さいが、これにも驚いた。予想より二十歳も上だ。 「それよりなも、哲っちゃん。菜美子ちゃんから電話があったでよ。神社で待ってるそうだでよ」 「え、あ、やばっ」  腕時計を見て、少年はあわてた。 「ちょっと待て、相川が、なんだって」  ニキビの多いほうが、少年の腕をつかんで迫る。 「え〜、あ〜、すまん、許せ、トースケ」  二人の少年は、じゃれるようにもみあいながら、自転車めがけて走っていく。その途中で、哲と呼ばれた少年は、くるっと体をひねって、祖母に向かって叫んだ。 「祖母《ばあ》ちゃん、ほんとに大丈夫か? 変ななまりが出てるぞ」 「心配ないげな。ひさしぶりに、懐かしい人に会うたせいで、小さい頃に使うとった言葉を思い出したでな」  老女の笑顔は、溌剌《はつらつ》とした少女のそれのようだと、かなたは思った。幼いころの記憶が、よみがえっているからだろうか。 「こっちへおいでな。ひとに聞かれるのは、あまり好かんでしょう?」  老女は、かなたたちにそう言うと、先に立ってひょこひょこと歩きはじめた。 「あ。はい」  かなたと八環は、瞬間、顔を見合わせて、あわてて彼女の後についていった。  老女が足を止めたのは、畑のはずれだった。一段高くなったあぜ道に、よっこらしょと腰をおろす。 「ええと、お祖母《ばあ》さん。あたしたち……」 「高岩《たかいわ》佳乃子《かのこ》と申しますげな」  老女の言葉に、かなたと八環もあわてて名乗った。 「未亜子から、我々のことを聞いておられたんですね」  八環が、サングラスを胸にしまいながら訊《たず》ねた。そういう礼儀には、気を使うほうだ。二百年前、山にいたころ大天狗にうるさくしつけられた。 「ああ、母さまは今はそういう名前を使うておられるんで」  老女が、こくこくと首をうなずかせた。 「ねえ、未亜子さん。何しにお祖母《ばあ》さんのところに来たの?」 「母さまが来られたのは、わしに、昔、母さまから教わった話を聞くためげな。なんでも、長いこと思いださなかったんで忘れてしまったと言うちょられた」  果たして、それがどんな話なのか訊ねていいものか。それを、八環とかなたが悩んでいるうちに、老女が続けて口を開いていた。 「わしと母さまは、血のつながりはないんでな。あれは戦争のずっと前のことやった」  高岩佳乃子、当時は九沢《くざわ》佳乃子だった彼女が、未亜子と出会ったのは、年号が大正から昭和に代わってすぐのことだったという。  彼女が両親を失ったのは、関東大震災でのことだった。あちこちの親類をたらい回しにされて、そのときは日本海に面した、雪の深いある村にいた。彼女が今使っているなまりは、そのあたりのものだという。 「長いこと忘れとったちゅうに、母さまに会うと、すぐに出てきたげな」  まだ尋常小学校にすらあがる前の子供だった彼女は、その家でひどい使われようをした。夏でも、ひびと赤ぎれの絶えない日々。 「そんな時分に、母さまに会うたで」  当時、未亜子は未那《みな》と名乗っていたそうだ。彼女は、近くの温泉街で芸者として生計を立てていた。純粋に、芸だけを売り物にして。 「げっしょねぇ人じゃって、有名だったわ」  老女は、くすくすと笑った。かなたが、鼻の頭にしわをよせる。 「えと……げっしょねぇ、って?」 「愛想がないとか、冷たい雰囲気とかいう意味。でも、悪い言葉じゃなくて、神秘的だとかそういう意味が含まれちょうのかね。母さまは、いつまでも年を取らんおひとだったけん」  解説になると、アクセントや語尾が、今暮らしているこのあたりのものになった。 「母さまとはじめて会うたときのことは、よう覚えとる。わしが、水くみから帰る途中で、桶《おけ》をひっくりかえしかけたんじゃ。そしたら、不思議なことに傾いても水がこぼれんかったげな。その後、すぐに母さまが来て、母ちゃんが欲しいかとお聞きなさった。ずいぶん前から、わしのことを見てなさったげな」  だからと言って、どうして未亜子が自分を引き取るつもりになったのか、佳乃子はわからなかった。  もしかすると、佳乃子の母が深川芸者だったことも関係があるのかもしれない。 「けど、わしには三昧線もなんも触らせてくれざったげな。勉学せい、ちゅうてな」  未亜子との暮らしでどんなことがあったのか、これ以上話すこともないだろうと、老女は言った。 「ある晩じゃった。母さまを襲ったやつらがおったげな」  それは、未那——未亜子にふられた高級軍人が送りこんできた連中だった。短刀をかざして、佳乃子を人質にとった。  ヤクザたちを追い散らすために、未亜子は真の姿をあらわしたのだという。 「たかがチンピラを相手にするのに、未亜子さんが正体を?」  かなたたちには、信じられないことだった。兼亜子なら、短刀どころかマシンガンを持った相手とでも、素手でわたりあうだろう。人間の形をとったままでも。 「お祖母《ばあ》さん、驚いた……?」 「あげんときゃ、怖くて、怖くてどうしようもなかったげな。逃げたチンピラが落としてった刃物ふりまわして、こっち来るなって言うてしもた」 「そんな……《′》」  かなたは、くちびるをぐっと噛《か》み締めた。そのときの未亜子の思いは、どんなものだっただろう。今まで、しばしば出会ってきたことだ。信頼を愛を裏切られたと感じて、歪《ゆが》んでしまった妖怪も多い。  かなたには、すべてを知っても友だちでいてくれたひとがいる。親友、守崎《もりさき》摩耶。  佳乃子を責めたい。けれど、そんなことをしてもしょうがない。だから、血がにじむほどくちびるを噛みしめる。  ……けれど、そんな思いをさせられたのに、どうして未亜子は、彼女に会いにきた? 「母さまは、その晩からどこかに行ってしもうた。わしは、謝りたかったのに」  そう言って、老女の瞳から、涙がこぼれおちた。小さな水滴が、かなたと八環の表情をなごませる。 「そのとき、わしは十八でな」  将来を誓いあった恋人、高岩|源太郎《げんたろう》が彼女を支えてくれたという。結婚して、彼の実家であるこの家に入った。彼は、太平洋戦争で戦死したが、二人の男の子を残していってくれた。そして佳乃子は、家を支え、畑を守り、この年になったのだ。 『もしかして、自分のかわりになってくれる人があらわれたから、だから、わざと佳乃子さんのところを離れたのかな』  かなたは、推測を口にはしなかった。もう、そのくらいのことは、老女にだってわかっていただろうから。  それから、長い年月がすぎて。 「ひさしぶりに今日来られなさった。母さまは、ちょっとも変わっておられん。もう会えることはないと思うとった。じゃから、母さまがおいでくらざって、ほんま嬉しかった。ずうっと、ずうっと謝りたかったで。嬉しかった」  しばらくのあいだ、午後の柔らかな日差しの中で、三人は黙りこんでいた。遠くで、鳥の鳴き交わす声が聞こえる。走りすぎる自動車の音が、かすかに聞こえる。 「……それじゃあ、未亜子は、懐かしくてあなたに会いに? 昔の話というのは、あなたの謝罪を聞くということだったんでしょうか」  八環には、彼女の意図がわからなかった。かつて、捨てたはずの海赤子。未亜子が、佳乃子を育てたのは、罪の意識からだったのだろうか。  けれど、不幸なことに、未亜子は頭がよかったはずだ。そんなことでは自分をごまかせないくらいには。 「母さまは来て、こう言わさった。ちっちゃな頃にしてあげた、昔話をしておくれと。それはの、未夜っちゅう濡《ぬ》れ女と、さえっちゅう娘の話げな。自分がどうしたいのかを、もう一度確かめるために、他人の口から聞きたいのだと言うておられました。そして、誰かが訪ねて来たら、その話をしてあげて、と」  そして、かなたと八環は、未亜子がどこにいるかを知ったのだ。  畳ケ淵という海岸がある。あまり、知られた場所ではない。けれど、名を聞けば、どんな光景かはかなりのところまで想像がつくだろう。  少し、間違っているはずだ。  ここまで広くて、そして奇妙な光景だとは、想像力は及ばないはずだから。  波と風が刻みこんだ、幾重にもなった薄い岩が、見渡す限りに広がっている。芸術的とも、神話的とも、あるいは不気味だとも、見るひとによって、それぞれに解釈できる場所だった。日が暮れかけた頃になって、かなたと八環はこの場所にたどりついていた。いちおうは観光マップにも掲載されているのだが、この時刻では人の気配はない。  少なくとも、人間の気配は。  ただし、人間以外なら、気配どころではないのが堂々と立っていた。  八環を、おそらくは待っていたのだろう者が二人。  一人は、ふっくらとした中年の女性。その後ろにいる町は、あまり一人という数え方はふさわしくなさそうに思える。言ってみれば、縦長のクラゲというか、上下方向にぐぐっと引き伸ばされた半透明の東京ドームというか。ぼんやりと二つ光っているのは、目だろうか。表面はぬめぬめと光っている。風は、海岸線と平行に吹いているのに、彼らの風下に立つと、強い潮の香りがした。 「渡橋さん……なんでここにいるの?」  中年の女性に向かって、かなたは目をぱちくりしながら言った。警戒するべきだと、頭の片隅で囁いている自分もいるが、八重のふくよかな笑顔を見ていると、どうもそんな気にはなれないのだ。 「あんたらこそ、ずいぶん早かったねぇ」  八重は、感心したようすである。  彼女の後ろにうずくまっていた者も、象の吠《ほ》え声と河馬のあくびを足して二で割らないような声をあげた。本人以外の三人が、いっせいに顔をしかめる。鼓膜が、しばらくはビリビリと震えていた。 「ああ、紹介しとくわ。ウミポウズのゴンジさん。見た目はこうだけどいい人よ」 「……まあ、襲うつもりなら、ここで待ち伏せしてるわけもないだろう。もっと、自分たちに都合のいい場所にいくらでもさそいこめたはずだ」  八環は、ふうと息を吐いた。ため息ではない。呼吸を整え、平常心をとりもどすためだ。彼の煙草は、下くちびるに貼《は》りついているだけで、だらりとたれさがっている。それなりにつきあいの長いかなたには、八環が戦いの準備をしているのだとわかる。  しかし、八重には、彼の姿が警戒を要するものだとは、まるっきり見えなかったようである。 「ああ、やっぱり、いい年した男のひとが一人っていうのはいけんねぇ。どうしても、だらしなさが体に染みつくけん。あたしから、未亜子ちゃんに口添えしてあげようか?」 「……八重さん、未亜子さんを知ってるの?」  すっとんきょうな声をあげてしまった自分が、ずいぶん間抜けに見えるだろうなとかなたは思った。 「あたしが、何年この国で暮らしとると思っちょるの?」  八重は、平然とした態度でそう言ってのけた。 「知っちょう? 霧香さんは、出雲《いずも》で作られた銅鏡なのよ。もっとも、あのひとが国を出てったのは、あたしも生まれてないころだけど」  かなたはもちろん、八環も言葉がない。 「みんなねぇ、どんどんここを出てってしまうのよ。ちょっと寂しいけど、しょうがないかもしれんわね。ここは古い土地で、あまりにも変わらなすぎるけん。でも、あたしはここが大好きだけん、みんながいつでも帰ってこれるように、ここにいようと思ったの。だから、旅館なんかはじめたのかもね」 「……あ、なるほど……って、納得してる場合じゃないっ! いったい、どういうことなの!」  我に返って怒鳴ったのは、かなたのほうが早かった。 「ちゃんと説明してよ! この緊急事態に、どうしてあたしたちをわざわざ遠回りさせたの! まさか海赤子の手先ってわけでもないでしょうに!」  噛《か》みつきそうな勢いの——本当に牙を生やしている——かなたに、八重は眉《まゆ》をひそめた。 「年頃の女の子が、ちょっとはしたないわよ。お嫁さんのもらい手が……」 「そんなことはどうでもいいのよ!」  かなたが、ずんずんと八重に迫った。鼻がくっつきそうだ。 「未亜子ちゃんがね、まだしばらく気持ちの整理をしたいって言うもんだけん、時間稼ぎしちょったの」  八重は、あっさりと答えた。  かなたは、口をばくばくと開けたり閉じたりしている。 「でも、あんたらが自力でつきとめられるように、手がかりは残してきたっていうちょったけどね。自分の口から話したくないことも知ってもらいたいとも」  だから、佳乃子だったのかと、かなたは思った。おそらく、聞きこみを続けていても、いずれは彼女のところにたどりつけはしたのだろうけれど。 「ここまで来たら、かまわんけん、通してくれとも言われちょうのよ。未亜子ちゃんはね、あの崖《がけ》の下におるわ」  オーバーハングになっているあたりを指差す。すでに満ち潮。波はあらく、突き出た岩棚を削る勢いだ。砕けるしぶきは夕日にきらめいて、まるで飛び散る火の粉のように思えた。  その下に未亜子がいるというのは、海中ということだろうか。  この海なのか、と八環は思った。未亜子が生まれ、暮らしてきたのは、この寂しげな海なのか。 「まあ、水の中で息ができるか、空が飛べんと入れんわね」  八重の言葉を聞いて、八環が上着を脱ぎ捨てた。背広とシャツを、ぽんとかなためがけてはうり投げる。 「ちょ、ちょっと」  かなたの抗議の言葉も聞かず、彼は真の形をあらわにした。嘴《くちばし》と漆黒の翼を持つ、鴉天狗《からすてんぐ》の姿を。  大きく翼をひとうちして飛び上がる。あっというまに、その姿は波のあいまに消えていた。 「こら、あたしも連れてけ」  かなたが、何かに変身しようと、ポケットの中に用意しておいた葉っぱを取り出したときだ。 「ちょっとお待ちなさいな」  にこにこしたまま、八重が彼女の肩を掴《つか》んだ。動けない。足が地面を離れないのだ。 『妖術《ようじゅつ》? なんで止めるの、罠《わな》?』  かなたは、一瞬あせった。だが、あわててはいけないと自分に言い聞かせる。落ち着いて、よく見てみた。いつの間にか、ウミポウズの底面から、太いぐにゃぐにゃした腕が伸びて、かなたの足首を掴んでいる。 「ただ時間稼ぎだけなら、あたしがここにおる必要はないのよ。忙しいんだけん」  修学旅行生が来ているのは嘘《うそ》ではないのである。 <松屋> の従業員はわずか八人。猫の手も借りたい忙しさなのだ。だから、猫娘のミケがバイトに来ている。 「あたしが、ここにいるのは、かなたちゃんがついてくのを止めるため。いけんよ、不粋なことしちゃあ。二人きりにさしたげなさい」 「でも」  かなたはもがいた。けれど、ウミボウズの手は離れようとはしない。 「どうして、わざわざ遠回りさせたと思っちょるの。頭を冷やしてもらうためよ。このことは二人で決着をつけるしかないの」 「わかった。わかりました」  逆らえないと悟って、かなたはペタンと腰をおろした。ほっぺたが、少しふくれている。 「あたしが仲裁したげないで、大丈夫かなぁ」 「平気、平気。ああいうのは、ほっといたほうがええ結果がでるのよ。あたしが、何百組の仲人《なこうど》をしてきたと思っちょるの。ところで、かなたちゃん、ほんとはいくつ? あの子供姿が、ほんとの年なの? あたしの知っちょう狸で、いい子がいるんだけどね……」 [#改ページ]  10 砕ける波  八環は、崖の下に飛びこんだ。  波が砕けるしぶきの向こうに、ぽっかりと口を開いた洞窟《どうくつ》がある。引き潮のときなら、かろうじて人間でも入りこめるだろうか。もっとも、危険な上になんの利益もないことだから、実行する人間がいるとも思えないが。それに、この洞窟の存在自体、海上からででもなければ気づかないだろう。  波がひいた一瞬を狙《ねら》って、八環は洞窟に入りこんでいた。  洞窟は暗く、八環は目を細めた。彼の視力はかなり鋭いが、夜目は人間と同程度にしか利かない。  洞窟のはるか奥に、ちろちろと揺れる灯が見えた。ろうそくではないかと、八環は思った。ぬるぬるした足もとで滑らないように、慎重に進んでいく。ある一ヵ所で、足もとの感触が変わった。岩に生えていた苔《こけ》か何かが、はがされているのだ。それは一直線に続いていた。  何かが這《は》った後だ。  八環は、足を早めた。洞窟は、かすかに登り坂になっている。どんな自然の作用が、ここを  作りあげたのだろう。もしかすると、別の力も働いているのかもしれない。  入りこんですぐに、潮の香り以外の、何かの匂《にお》いが八環に届いた。これは花と線香と、もうひとつはなんだろう?  足もとの感触が、また変わった。土になっているのだ。  そのときには、遠かったともしびは、周囲を照らす明かりに変わっていた。そこは、小さなドームのようになっている。足もとは乾いていた。満潮になっても、ここまで水は来ないらしい。 「たった一日かそこらなんだが、ずいぶん長く会ってないような気がするな」  八環は、自分の声が震えもせず、興奮してもいないことを、誰にともなく感謝した。  彼の目の前に、未亜子がいる。彼女は、ひざまずいて手をあわせていた。円形の大地の中心あたりに、石を積みあげて作った墓標が三つ、大きなものと小さなもの、そして中間の大きさのものと並んでいる。  石の墓標の前には、花束がそえられ線香が焚《た》かれ、それぞれに酒とおはぎと、そしてあけびの実が供えられている。 「話は、だいたい聞いたよ。それが、さえって子のお墓かい」  未亜子が小さくうなずいた。  八環とかなたが、高岩佳乃子から聞いたのは、こんな昔話だった。 『昔々、京にみかどと将軍の、両方がいたころの話です。といっても、都は焼かれ、将軍の命令もみかどの命令も、誰も聞いてくれなかった、そんな頃。  あるところに濡《ぬ》れ女と海赤子という妖怪がおりました。そいつらは、人間の血を餌にしていたので、次々にひとを襲っていました。  ある日のことです。そいつらは、一組の母と子を襲いました。  海辺が、彼らの縄張りです。今日の舞台は、波が砕ける崖のきわに刻まれた、狭い狭い道でした。人ひとり通るのが精一杯の道に、大きな蛇体の濡れ女が立ちはだかったのです。  相手は、旅装束の二十四、五の女と、八つくらいの女の子でした。  濡れ女は、こいつらも、いつもと同じだろうと思っていました。お互いをかばいあって、自分を喰って相手を助けろというか、それとも、片方をさしだして自分だけはと命乞《いのちご》いをするか。  妖怪たちが何か言う前に、人間のほうが口を開きました。  母親は言ったのです。 �さえ、戦いますよ。生きていたければ、ここを乗り切るのです�  母親の言葉に、娘はきっぱりとうなずきました。  彼女たちは、こぶりの刀をそれぞれ持っていました。かまえも、付焼き刃のものではありません。姿は庶民のものでしたが、もしかすると武家の一族だったのでしょう。 �いいですか、死んではなりません。あなたは、まだ、あなたの生を生きてはいないのですから� �だったら、おばさんが身代りになればいいんだよ。おいらから、母ちゃんに頼んであげる。そっちの女の子は見逃してくれるように�  海赤子はそう言いました。彼の、いつもの手です。けして、見逃すつもりなどないくせに。 �私が死ぬこともできません。この子には父がいませんから、私が死ねば、たいそう苦労するでしょう�  彼女の言うことは、確かでした。戦乱の時代でした。母がいてすら、子供が育つかどうかわからない時代でした。親が生きるために子供を道具にするのが、当たり前の時代だったのです。 �だから、私たちのどちらにもかまわないで�  化物を相手に、よくこれだけ気丈なことが言えたものです。けれど、海赤子は、嘲笑《あざわら》いました。 �どっちも生かしてくれというのはムシがよすぎる。どっちかだよ。かたっぽだけは死んでもらう�  海赤子が、どちらも助けるつもりなどないことを、母と子は感じていました。 �この子は死なせません。この子を生かすために、私も死ねません�  母親は、きっぱりと言ってのけました。 �できないよ�  にやにやと笑いながら、海赤子はそう言い、滞れ女に合図を送りました。  まず子供を引き裂いて、母親を苦しめろと。  濡れ女は、なんの疑問も持たずに、それに従いました。彼女にとっては、海赤子を喜ばせることが生きる意味だったからです。海赤子は、彼女にとってかけがえのない息子であり、恋人であり、夫であり、父であったのです。  濡れ女は爪《つめ》をふりあげました。しかし、次の刹那《せつな》。悲鳴をあげたのは、海赤子のほうでした。彼の腹に、母親の投げつけた刀が刺さっていたのです。 �この馬鹿! 何をしてるんだ! 役立たず、のろま!�  海赤子は、口をきわめて濡れ女をののしりました。この程度の傷は、海赤子には蚊に刺されたようなものでしかありません。ただ、自分の大言壮語を破られたような気がして、彼は怒ったのです。  あわてた濡れ女は、やみくもに鉤爪《かぎづめ》をふりまわしました。  母親は、胸を切り裂かれて、吹き飛びました。けれど、死にません。片方の手で、刀をかまえています。もう片方の手は娘の肩に置かれていました。おさない娘も、しっかりと大地を踏み締めていました。 �母上さま、しっかりなさいませ�  幼さに似合わない気丈な声で、娘は言いました。 (どうして、こいつらはこんなに強いのだろう)  濡れ女は、いぶかしく思いました。彼女は、ついしばらく前の自分たちの姿を思いだしていたのです。  彼らは、この海で最強と言われていた牛鬼に挑戦したのでした。海赤子が、誰かの下についているのは嫌だと、そう言ったからです。  だから濡れ女は、牛鬼を倒そうとしたのでした。けれど、二人は牛鬼にかなわず、逃げだすしかなかったのです。  たった一撃で、濡れ女はくじけました。死ぬと思ったら、怖くて、逃げずにいられませんでした。海赤子は、彼女の腕の中から飛びだして先んじて逃げたのです。 (それなのに、こいつらは)  力の差は、牛鬼と濡れ女よりはるかに大きいはずです。それなのに、どうして彼らは踏みこたえているのでしょう。なぜ、海赤子に傷を負わせることができたのか。 �ねえ、あんた�  濡れ女は言いました。 �こいつらを飼ってみようよ�  この母と子がどうして強いのか、濡れ女はどうしても知りたかったのです。彼女も、強くな  りたかったから。どうして強くなりたいのか、それはわかっていなかったけれど。 �お願いだよ。あんたに怪我《けが》をさせたぶんは、なんとかつぐないをさせるから�  濡れ女が、海赤子の言うことにさからったのは、生まれてはじめてのことでした。きっと怒鳴られると思ったのですが、はじめてのおねだりに驚いたのでしょうか。濡れ女が拍子抜けするほどあっさりと、海赤子はそれを許してくれたのです。  こうして、母と子は濡れ女たちの住む、海の底へ連れてゆかれました。  母親は、しかし、それから数日も生きてはいませんでした。傷は、海座頭に薬をもらって治したのですが、食事をいっさい取ろうとしなかったからです。濡れ女と海赤子がさしだした食べ物は、人の肉だったのです。 �戦いなさい……�  母親は、娘にこう言い残しました。 �私は、教えられた誇りを捨てることはできませんでした。けれど、お前はそれに従う必要はない。生きて、生きて、生きぬくのです�  子守歌を口ずさみながら、母親は儚《はかな》くなりました。母の最期の願い通り、娘は生きのびたのです。粥《かゆ》のかわりに、人の生血をすすってでも』 「娘の名は荒海《あらみ》。妖怪《ようかい》に育てられた <鬼姫> 。後々、隠岐《おき》水軍の女頭領になる」  八環は、そこで言葉を一旦《いったん》切った。  未亜子は、じっと石の墓標を見つめている。ぼつりと言った。 「わたしがつけた名前よ」  しばらく待っても、続きはなく、八環は物語を続けた。未亜子の後ろ姿を見つめながら。  彼は、翼を閉じているのに、まだ飛んでいるような気がした。しゃがみこんでいる未亜子が、どんどんと遠ざかり、それをいつまでも追いかけていかねばならないような、そんな気分だったのだ。 「妖怪に育てられた娘は、強くなった。そして、濡れ女も強くなったんだ。娘は、そのころ海を荒し回っていた海賊どもをしたがえ、恐れられる海の武将になった。 <鬼姫> 荒海と呼ばれるようになったんだ。濡れ女と海赤子は、牛鬼を倒して、海の妖怪の総大将になった。人間であれ、妖怪であれ、この海で彼らに逆らう者はいなくなってたんだ」  そこまで語られたとき、未亜子の肩が、ぴくりと動いた。 「面白《おもしろ》かったわ、人間を育てるのは」  八環の物語をさえぎって、未亜子が言った。墓標がわりの積み石に、もう一つ、さらにもう一つとつけくわえながら。  八環は言葉を途切《とぎ》らせている。未亜子は、彼のほうを見ないままだ。 「人間は、どんどん変わるんですもの。どんどん成長してゆくんですもの。教えたことで変わる。逆に教わる。離れていこうともするし、逆に甘えることもある。独りであるということの意味を、自立することの喜びと寂しさを、わたしは教わったの。そして、彼女に夢中になっていた。なりすぎていたのかもしれないわ。幸か不幸か、あいつは手に入れた権力で遊んでいてくれたしね。自分にかまってくれって言いもしなかった」  あたり一帯の海を支配した海赤子は、さまざまな女妖怪を集めて、そいつらと組んでの襲撃を試していたのだという。すぐに飽きて、殺してしまうことも多かったそうだ。もちろん、殺すのは濡《ぬ》れ女の役目だった。  隠岐水軍は、周辺をあらしまわり、ほとんど海の領主となっていた。島に築かれた館は、壮大な城だった。 「ある日、荒海は男を連れてきたわ。こいつの子を産むことにしたって言って」  昔話は、男の名を伝えていない。 「それから一年して、生まれたのがさえよ。わたしは、さえを可愛《かわい》がったわ。荒海より、もっと面白かった。子守歌を荒海に教わって、よくあやしてやったわ」  八環は、煙草をくわえて、火をつけた。線香のかわりに、三つの墓標の前にさしこんでゆく。一つずつ、ゆっくりとした動作で。 「さえが四つになったとき、夜中にいきなり、荒海が率いている海賊たちが、わたしを襲ったわ。先頭にたってたのは、もちろんあの子よ。『母上さまの仇《かたき》だ。今日という日を待っていたんだ』って、そう叫びながら、ね」  このくだりを佳乃子から聞いたとき、かなたは涙ぐんでいた。  さみしさを思い出したせいで。妖怪なら誰でも知っている、あの、世界すべてから拒絶されたような感覚を。 「しょうがないから、まず、荒海の夫から殺したわ」  未亜子の声は、淡々と乾いている。海の生まれである彼女が乾くとしたら、それはあまりにつらすぎる思い出のせい。乾いて心がひび割れるような。 「死骸《しがい》がごろごろころがった。殺したわ。海賊たちを、そして荒海も……さえも」  未亜子が、両手を地面についた。 「最期に、荒海はどう言ったと思う。ごめんなさい、母さん、よ。はじめて、わたしを母さんと呼んだわ」  未亜子は、小石を握りしめた。ばきゃんと音を立てて、石が砕ける。白い指が血にまみれる。 「ごめんなさい、母さん。あたいは海赤子に乗せられてしまったの。お願い、さえだけは助けて。さえのことをお願い。そう言って、死んでいったの……あの子の母親と同じ目をしてた。わたしを凍りつかせるような目……わたしを信頼する目を」  未亜子の声は震えていない。けれど、背中は揺れていた。そっと手を伸ばして、触れる前に八環はためらった。 「開かれていても、荒海の目はもう見えていなかったのね。怒り狂って我を忘れたわたしが、血の涙を流しながら、さえの首を喰いちぎっているところは見せずにすんだわ」  風もないのに、未亜子の髪が乱れた。ばらばらと乱れて落ち、彼女の顔を覆い隠したのだ。 「荒海と、荒海の母と、どんな気持ちで死んでいったのかしらね。子供のことを思いながら? わたしは、自分の手で子供を殺した……血まみれの手を見ながら、茫然《ぼうぜん》としていたら、あいつが帰ってきたの。笑ったわ。腹を裂かれた荒海を見て、嬉《うれ》しそうに。そして言ったわ。『わかったろ? おいら以外は、みんなお前を裏切るんだよ。おいら以外を見ちゃいけないんだよ』って」  未亜子の、そんなか細い声は、八環だってはじめてだ。誰かに守られるしかない、導いてもらうしかない、少女のような頼りなさ。八環の手が、未亜子の肩に置かれる。彼は、ぐっとその細い肩を握りしめた。彼女の肩は細かった。彼が覚えていたより、一段と細く感じられた。 「荒海が、あいつに騙《だま》されていたのかどうか、本当のところはわからないわ。あいつが、荒海の耳に、ひそひそ何か囁《ささや》いてたのは確かね。本人が言ったのだもの。わたしが、ずうっと荒海とさえにかまっていたからつまらなかったって。わたしのせい? わたしのせいなの?」  八環は言葉を見つけられず、未亜子を背後からしっかりと抱きしめた。かろうじて、それだけできた。 「そう言われたときに、わたしは気づいたのかもしれない。まるっきり育ってくれない、あいつの面倒を見ることに疲れてたことに。荒海は大きくなった。さえは、日々言葉を覚えていた。そして、いつか、わたしから離れていくとわかってた。でも、あいつはいつまでも同じ、変わらない、離してくれない。あいつが夫であれは、それでもよかったのかもしれない。でも、あいつは、わたしの子供だった」  未亜子は、息もつがず、一気に言葉を続けた。 「海の底でも感じたことがないほど、わたしはそのとき息苦しかった。……気がついたときは、あいつをずたずたに引き裂いていたわ。あいつは、わたしを信用してたから……今度は、わたしが裏切ってやったの。後ろから爪をふるってやったわ。ぼろぼろにして、動けないように大きな岩を上に乗せてやった。わたしは、エゴイスティックで、残酷な女なの」 「違う。お前は……」  八環は、言葉を捜した。なんと言えばいい? なんと慰めればいい? わからない。この抱擁も、彼女にとっては息苦しいのだろうか。なぐさめを未亜子に拒絶されることそのものよりも、彼を拒絶することで彼女が傷つくことのほうが恐かった。  彼の態度をどうとったのか。未亜子はさらに言葉を続けた。 「……それから旅に出て、何人もの子供たちを育ててきた。わたしは、母さんともう一度呼ばれたかった。そう呼ばれて、子供たちが巣立っていくのを見守ってきた。そうすることで自分がどうやって独りで立てるかを学ぼうとしたわ。彼女たちが、誰かに自分を託すのを見て、よりかかるのでなく支えあうすべを知ろうとしたの……」  子は育てば、親を救《たす》けるものだ。だからこそ、未亜子は佳乃子に会いに行ったのだろうか。  未亜子は、抱きしめられながら、八環の顔を、まだ見ようとはしなかった。肌をあわせていても、心は重なっていない。 「あいつは、わたしのことを母ちゃんと呼んだけれど、決してそうじゃない」  未亜子が、八環の抱擁から抜け出す。簡単に出られた。少し動くだけで、彼の腕から力は抜けてしまったのだ。 「すがるものなしに、数百年をすごしてきたわ。ときたま、子供以外のものと暮らすこともあったし、母から妻になってくれと求めた子もいた。あいつのように、同時にすべてであろうとした子は、いなかったけど。そう、そうよ。あいつは、わたしにとってすべてだった」  未亜子の告白を聞いて、八環の顔が苦痛に歪《ゆが》んだ。 『あいつがすべて、あいつがすべて』  彼女の言葉がリフレインする。  はねまわる心をねじ伏せるには、つちかってきた全ての力が必要だった。八環は、この痛みをあらわす言葉を知らない。彼女と、自分がそうしたよりも濃密な時間をすごしている者がいたことが苦しい。自分を、未亜子が頼ってくれないことが哀《かな》しい。この思いが、どうして伝わらないのかが、いらだたしい。これほどの八環の思いにも、気づかないのか。  そうなのだ。伝わらないのは当たり前なのだ。彼が、言葉にしていないのだから。話さずに伝えることなど、できるものではない。少なくとも、最初の一歩目は必要なのだ。  だが、八環は、まだ自分の思いが、どんな言葉であらわされるのか把握していない。妖怪《ようかい》として生を享《う》け、子孫を残す必要を感じることもなく、伴侶《はんりょ》を求めたこともない、そんな彼には、自分がもてあます、この気持ちをあらわす語彙《ごい》がない。  自分の気持ちを確かめるために、八環はこう訊《たず》ねた。 「あいつは、未亜子にとって夫だったのか?」 「ええ」  うなずくと髪が揺れて、白い耳たぶが見えた。 「ともにときを過ごすひとだったわ」  八環は、未亜子と共有してきた時間を思い起こそうとした。頭の中が真っ白になったようで、何も思い浮かばない。 「恋人でもあったわけだ」 「そうかしら、胸が熱くなったことはなかったけれど。互いに縛りあってはいたわ」  自分の中にある、このどろどろとした熱いものを。胸を焼きつくしそうな思いはなんというのだ。 「あいつの言いなりだったってことは、父親でもあったわけだ」 「……そうね。それは考えたことなかったけど。荒海に会うまでは、あいつは何もかも指図してた。心理的には、あたしはあいつに守られてたもの」  父親ってのは問題じゃない。いつか、誰かに役目をとってかわられるのが宿命だ。 「子供としては?」 「……あたしたちは妖怪よ。本当の意味で、子供を持つことなんてできるのかしら。佳乃子にあったのは、それを確かめたかったからかもしれないわ。あの子みたいに、あいつは成長しなかった」  ふりかえった未亜子の頬《ほお》に、涙が光っている。 「あたしは、子供たちに、母さんと呼ばれたかったの、それとも母ちゃんと呼ばれたかったのかしら。ここに来て、忘れようとしていたことを、もう一度はっきり思いださなきゃいけないと思ったの。結論を出すために。そしたら気がついたの。とっくに、どうするかは決めていたのよ。ただ、踏ん切りがつけたかったの。きっかけが欲しかっただけ」 「……どうするんだ、これから」  八環は、ようやくそう訊ねた。怖かった、答えが返ってくるのが。自分が、どう反応してしまうのか、わからなかったから。 「戻りましょう、東京に」  未亜子は言った。八環は、深くうなずいた。それしかないことはわかっていた。逃げることなど、できはしない。 「そして、あいつに会わなくちゃいけないわ。あなたと、わたしと、あいつと三人で、結論を出すの」 「ああ、三人でだ」  自分を、少なくとも当事者とはしてくれるわけだ。関係ない者だとは思っていないのだ。それがわかっただけでも、八環は痛みがやわらいでいくのを感じていた。  そして、八環は、未亜子を抱えた。外に出るために、大きく翼を広げて。 [#改ページ]  11 呪法満ち潮  かなたたちが、島根県を出ようとしているころ。  東京の湾岸の一角にある小さな闇《やみ》の中で、こんな会話がかわされていた。 「まさか、襲撃に出した二人ともが返り討ちにあうとは思いませんでした。キャンディとグラコウスを倒すとは、さすが我々の邪魔をしてきただけのことはある妖怪たちだ」  妖怪サラリーマンは、顔をハンカチでぬぐいながら言った。  冷や汗をかいているというわけではない。雨に濡《ぬ》れたからだ。台風が、東京に迫っていた。ひさしぶりの直撃である。  もっとも、膝《ひざ》から下が、相変わらず海水でずぶ濡れの状態では、顔だけ拭いてもたいした意味はなさそうだが。 「あんたが推薦したんだろ。あてにならない連中を」  海赤子が言った。今日は、おくるみに包まれている。彼を抱いているのは、いつもの女だ。しかし、その手は蒼《あお》ざめて痩《や》せ細っていた。 「いやぁ、これは手厳しい。しかし、スキュラはお役に立ったようじゃありませんか。まだまだ、これからですよ。あと、二人か三人くらいなら手配もできますし」 「必要ないね。あいつも来てくれたし」  海赤子は、そっけない声で言った。 「切り札とやらですか? そうはおっしゃいますが、あれは、海からあがれないのではありませんでしたか」 「そうだよ。だから、あんたたちの手を借りてたんじゃないか」  海赤子の声は不機嫌そうだった。しかし、交渉に慣れた妖怪サラリーマンは、その口調にどこか作り物めいた響きを感じていた。 「しかも、その分、言うこともきいてやった。あんたらが、先に <うさぎの穴> の連中を片付けてくれというから、未亜子が逃げ出すのも見逃して、戦ってやったしな」  海赤子の声が、段々うわずってくる。 「そうですが、あの八環という男までほうっておくのは、どういうことです? あいつこそ、いちばん最初に叩《たた》きのめすべきでは?」  その言葉を口にしながら、妖怪サラリーマンは後悔していた。相手のいらだちに、自分まで乗せられて感情的な言葉を口にしてどうするのだ。相手がいらだっているなら、つけいる隙《すき》ではないか。  そう考えているうちに、妖怪サラリーマンは気づいた。自分が怯《おび》えていることに。  力に対してではない。自慢ではないが、みずからが所属するシャイアーテックスの社長、大堂寺《だいどうじ》竜三郎《りゅうざぶろう》の前に出ても臆《おく》したことのない彼だ。地上最強の妖怪《ようかい》、ビーストヘッドの力も、彼に恐怖はもたらさなかった。  それは、ビーストヘッドが理性的な存在だったからだ。利益と損失をはかりにかけ、論理的な判断を優先させ、なにがもっとも効率良く人類の破滅を招くか計算する。  けれど、海赤子には、その計算がない。自分を守ろうとしていない。だから、何をしでかすかわからない。  予測不可能な存在ほど、サラリーマンにとって苦手なものはなかった。だから、怯えて、つい興奮してしまうのだ。 「ああ、こほん。言い過ぎました。あなたには、深いお考えがあってのことでしょうし、お許しください」  妖怪サラリーマンは、深々と頭をさげた。プライドなど、品物の代価が安くなるなら、いくらでもおまけにつけてやる。 「深いってほどの考えじゃないんだよ、あいつを生かしておくのは」  さきほどまでの怒りとうってかわった、楽しげと呼んでいいような口調で海赤子が言った。 「あいつが、いちばん未亜子にくっついてるみたいだから、最後に殺してやるんだ。未亜子のまん前で。未亜子を追いかけていかないのと同じことさ。あいつもほうっといてやって、最後に思い知らせるんだ。つまり、あれもこれも、あんたたちのためってわけだ」 「まことにありがとうございます」  これ以上は、いかに妖怪でも不可能だろうというくらい深く、サラリーマンは腰を曲げた。 『この嘘《うそ》つき小僧め』  心の、いちばん底で呟《つぶや》く。彼の心は二重構造になっている。よほど力のある読心術の使い手でもないかぎり、彼の真の考えを知ることはできない。 『貴様はただのサディストだ。まわりからじわじわといたぶって、あの鴉天狗《からすてんぐ》と濡《ぬ》れ女が苦しむのを見たいだけなのだろうがよ』  という妖怪サラリーマンの抱いた感想が正しいのかどうかは、海赤子自身にもわからないだろう。 「で、これからどうなさるのです? あの切り札とやらを、どうやって使うつもりです」 「今朝、テレビを見てたんだけどね」  海赤子は、唐突にそう言った。 「は、はあ」  妖怪サラリーマンは、怪訝《けげん》そうな顔を作ってみせた。海赤子が、今の時代を知るためと称して、暇があればテレビを見ているのは承知していた。こんなときまでとあきれたのだが、それを表に出すわけにはいかない。だから、わけがわからないというふりをしたのである。  しかし、次の海赤子の言葉によって彼が見せた表情は、いっさい作ったところのない本物だった。 「ドラマでねぇ。田舎から出てきた娘が都会の中で堕落してくって話だったんだ。あれを見て、おいら悟ったんだよ。東京なんて街があるから、うちの母ちゃんもおかしくなっちゃったんだって」  どこか熱に浮かされたような、海赤子の言葉。 「なんですと? どういう意味です?」  サラリーマンは、ひゅっと音を立てて息を吸いこんだ。口の中が、瞬間で乾いてしまったのを感じる。  海赤子は、妖怪サラリーマンの疑問に直接答えようとはしなかった。 「次の天気予報が、またいい考えを教えてくれたよ。ほんとうに、いい時代だよね。テレビを見てれば、たいていの疑問に答えが出ちゃう」 『天気予報……なんだと……? 台風のことか? もう前兆が外で荒れまくっている。ああ、ぐずぐずしてると <ゆりかもめ> が止まってしまうな……いや、そんなことはどうでもいい。いったい、こいつは何をするつもりなんだ?』 「むかぁし、教わった呪法《じゅほう》なんだけどね。知ってるかい、海幸彦と山幸彦の話」  ビジネスでは何が必要になるかわからない。妖怪サラリーマンは、一通りの古典、芸術についての教養はそなえていた。 「古事記にある話でしたか。兄弟の神さまが、仲たがいをして……。弟の海幸彦のほうが善玉で、兄にいじめられるけれど、最後は潮の満ち干を自在にあやつる珠を使って勝つ……」  自分の言葉を聞きながら、妖怪サラリーマンは背中がぞくぞくしてくるのを感じていた。 「うん、そうだよ。その海幸彦の血を引いてる妖怪がいてね。命のかわりに、とっておきの妖術を教えるから見逃してくれって頼んできたんだ。教えてもらって、約束通り、一度だけ見逃してやったんだ。それなのに、一分経たないうちにまた会っちゃって、結局死んだんだけどね」 『あんたが殺したってことでしょうが』  話すうち、海赤子の機嫌は、どんどん良くなっていた。彼を抱いている女も、その声を聞いて嬉《うれ》しそうに彼をゆすってやっている。 「満ち干をあやつるというと、どの程度……」  妖怪サラリーマンは、おそるおそる問いかけた。 「他のときならともかく、台風が来てる上に、今日は大潮なんだ。きっと、誰かがおいらに味方してくれてるんだな」 「ですから、どの程度なのでしょう」  ともすれば、荒々しいものになりそうな声を必死でなだめて、妖怪サラリーマンは訊《たず》ねた。 「呪法満ち潮。使えば、東京全部、沈むよ」  気楽そうに、海赤子が言う。 「それは……素晴らしい」  妖怪サラリーマンは、かろうじて言葉の後半を入れ替えた。本当は、とんでもない、と言いたかったのだが、万が一にも止めようとすれば、海赤子は容赦なく彼の首を刎《は》ねるだろう。 「そうだろう? 素晴らしいだろう? まあ、 <うさぎの穴> とやらの連中は沈んだくらいじゃくたばりやしないだろうけど、東京が全部海になったら、もうおいらたちにはかないやしないよ。あいつもいるしね」  よく知っているはずの <うさぎの穴> という名前に、わざわざ『とやら』などとつけて、相手を矮小《わいしょう》に見せようとするあたりで、『こいつは小物だ』と妖怪サラリーマンは、あらためて判断した。もちろん、表面にはそんな感想はちらりともあらわさない。 「まったく、おっしゃる通りです。しかし、東京が海に沈むとなると……」 「何か困ることでもあるのかい?」  海赤子の言葉の底に、ちくりとトゲがある。 「いいえ。たいした被害ではありません。事前にわかっていれば、それに乗じて儲《もう》けることもできます」  嘘ではない。現に、シャイアーテックス自身が東京を壊滅させようとしたこともある。 <海賊の名誉> 亭の妖怪どもによって阻止されたが。ただし、儲けるためには一年以上前に、破滅の到来がわかっていなければならない。  今は、とうてい無理だ。  数十万に達するだろう東京都民の命が失われることは、妖怪サラリーマンになんのショックも与えていない。彼が気にしているのは、その洪水によってシャイアーテックス社がこうむる、膨大な額の損害だった。けれど、その動揺を悟らせてはならない。 「いやあ、本当に素晴らしい計画です。 <うさぎの穴> のやつらを葬り、九鬼未亜子の未練もなくなる。一挙両得というものですな。我らの手助けなど必要でないわけだ。お知らせいただいて、ありがとうございました」  呼び出されたときは、傭兵《ようへい》妖怪たちの不手際を叱責《しっせき》されるものだと思っていたのだが、まさか、こんな話まで出ようとは。知らせてもらってありがたかったのは、心底からの言葉だ。独断でやられていてはたまったものではなかった。 「なあに、どうってことはないよ」  その海赤子の声を聞いて、なぜ自分が呼ばれたのか、妖怪サラリーマンははっきりとわかった。海赤子は、この思いつきを自慢したかったのだ。『こいつは……ただのガキだ』と、彼はさらに評価をさげた。しかし、ガキだろうが小物だろうが、今はまだ取り引き相手に違いない。 「そうそう、あんたらもこれで儲かるなら、人を世話してもらった借りは、なしってことにさせてもらうからね」 「もちろんけっこうですとも。すいませんが、これで失礼させていただいてよろしいですか? 何かと準備もございますので」 「ああ、いいよ」  海赤子は、気がすんだのだろう。自分を抱いている女の、胸をまさぐりはじめた。 「そうだ。各方面に手配の必要がありますのでお訊《き》きしたいのですが、呪法の儀式はいつ、どこで行なわれます? 東京が沈むのには、どのくらいかかりますか?」 「そうらな、真夜中にそこの海辺ではじめて、明け方には終わるよ」  乳房のふくらみに牙《きば》を立てて血をすすりながら、もごもごとした声で海赤子は答えた。 「そうですか。お食事、ごゆっくり」  その言葉を最後にして、妖怪サラリーマンはそそくさと外に出た。  彼は、後をつけられていないことを確かめると、携帯電話をとりだした。用のない者、敵意のある者は見つけられない <うさぎの穴> だが、電話は通じるのだ。  どちらが滅びようと、 <ザ・ビースト> に損はない。共倒れになってくれれば、万歳だ。  ルル……、チン。 「はい、もしもし?」  ベルが一つ鳴り終わらないうちに、受話器をもちあげたのはマスターだった。今夜 <うさぎの穴> に集まっているのは、聖良に教授だ。流と蔦矢がいる病院には、摩耶と大樹がいるはずだった。  聖良と教授が、一斉にマスターの手もとに注目する。 「ああ、霧香か。で、捜し物は……見つかった? そうか、よかった。一歩前進だな。ああ、さっきかなたたちから連絡があったよ。今夜中には、東京に戻ってくるそうだ」  マスターが、受話器を置くと、聖良が身を乗り出した。見た目は、落ち着いた雰囲気の中性的な美人。美容院 <セーラ> のオーナーでもある彼女だが、噂話《うわさばなし》に目がなく、どんな会話にも聞き耳をたてずにいられないという欠点がある。彼女の美容院は、髪をととのえにくるのではなくて、おしゃべりに来る客のほうが圧倒的に多い。  おかげで、しょっちゅう休んでいてもやっていけるのだが。 「どうなんです? 捜していた男をお見つけになったんでしょうか?」 「ああ。切り札とは言わないが、海赤子を相手にするのに、少しは役に立つだろう」  聖良の問いに、マスターが答えた直後、また電話のベルが鳴り響いた。今度は教授が手を伸ばす。 「はい?  <うさぎの穴> ですが?」  教授は、ぽりぽりと鼻の頭を掻《か》きながら、しばらく電話の声に耳を傾けていた。 「はあ、なんですって? それ、本当なんですか?」  そう問いかけた直後に、教授は顔をしかめた。頭を離して、受話器をまじまじと見つめる。 「どうしたんです? 切れたんですか?」  その受話器に耳を寄せながら、聖良が言った。かすかな、ツーっという音が聞こえてくるだけだ。 「ええ、言いたいことだけ言って、いきなりがちゃんと切れました。どこの誰ともわからない方なんですがね」  教授が、のんびりした仕草で首をかしげた。 「驚いたことにですね、今夜、東京が海に沈むとおっしゃってました。海赤子が呪法をやるんだそうで、場所も教えてもらいましたよ。名乗られませんでしたんで、正体は不明ですが」  ゆっくりと、まん丸いサングラスを押しあげながら、教授は言葉を続けた。 「罠《わな》、でしょうか?」  その可能性は高いと、誰もが判断していた。けれど、たとえそうだとしても、ほうっておくことはできなかった。 [#改ページ]  12 迫りくる嵐  佃《つくだ》温《たずぬ》は、あせっていた。  風はますます激しくなっている。雨もひどい。天気予報では、最大風速五十メートルとか言っていた。気圧のほうは、さて何ヘクトパスカルだったか。  この車ですら飛ばされてしまうのではないか、ときにはそう思えるほどの勢いだ。  風と雨の音で消されているけれど、このレインボーブリッジもきしみはじめているのではないだろうか。そんな不安にかられる。  他には、一台の車も走っていない。 『そりゃあ、この嵐の中、こんなとこ走るやつはいないよな』  助手席にほうりだしてあるPHSのほうをちらっと見た。ほんとうにちらりとだけで、あわてて視線を戻す。なんだか、ふらついて橋から飛び出してしまいそうな気がしたのだ。  この橋を超えたら、一度かけてみよう。そう、心の中で決める。  恋人からの呼び出しがあったのは、ほんの十五分ほど前だった。風がばたばた鳴って怖いのだと、親の仕送りで家賃二十万のマンションに住む彼女は言った。  いや、まだ恋人ではない。友だちとのライン上、ぎりぎりのところだ。一年前に山口県から就職で出てきて以来、はじめてできた女性の友人だった。ゲームサークルで異性と知りあうという、稀有《けう》な例である。  今日を機会に、一気に恋人の地位を確固たるものにしてやる。佃は、そう心に決めていた。そう思えば、来てくれという頼みを断るなど考えることもできない。  あせる気持ちをおさえて、佃はアクセルを加減した。ついつい踏みこみすぎてしまいそうになる。  視界は極端に悪い。 「くそっ、もうちょっとだ、もうちょっと」  彼がそう呟《つぶや》いたのは、レインボーブリッジのちょうど真ん中に来たときだった。  次の瞬間、彼は揺れを感じた。車ではなく、橋全体が確かに揺れたのだ。それは、台風によるものとは明らかに異質だった。 「なんだ?」  そう思いながら、反射的に彼はアクセルを踏みこんでいた。何かが、この橋に起きたのなら、とっとと逃げよう。そう考えたのだ。  だが。 「うわぁぁぁぁぁぁ!」  それによって自分が、巨大な牙の立ち並ぶ顎《あご》の中に飛びこんでいこうとしていることに気づいて、佃は悲鳴をあげた。彼の愛車を、一|噛《か》みで砕いてしまえるような、ばかでかい口だ。二車線分いっぱいに、それは広がっている。  いったいどこから、そんなものがあらわれたのか、彼にはさっぱりわからなかった。ふりしきる雨は、顎の後ろに伸びる、長いぬめぬめした黒い首も胴体も、覆い隠していたのだ。  とっさにハンドルを切る。  だが、間に合わなかった。スリップして、横滑りに牙の林へ突っこんでしまう。  彼が最後に叫んだ言葉は、これから会いに行こうとしていた女性の名でも、家族の名でもなかった。 「こんなときにファンブルかよう!」  心底からのゲーマー、佃温。彼は、この二九号台風によって犠牲となる十二人のうち、最初の死者だった。  彼の車があげた炎は、一瞬であやかしに吸いつくされたが、確かにそれを視覚に捕らえている者たちがいた。 <うさぎの穴> の妖怪《ようかい》たちだ。 「しまった」  マスターが、お化けワーゲソ—— <うさぎの穴> のあるビルの地下駐車場を寝ぐらにしている車の付喪神——の運転席で呟いた。いつも優しげな小さな目に、珍しい苛烈《かれつ》な輝きが宿る。湾岸沿いに走る道路からは、レインボーブリッジがよく見えていた。そして、その橋に絡みつく、橋そのものと変わらない長さの巨大な真っ黒い海蛇も。  よそ見をしていても問題はない。しょせん、マスターがハンドルを握っているわけではないのだ。お化けワーゲン自身が、自分を走らせている。 「な、なんですの、あれ!」  後部座席にいた聖良が、マスターの視線を追ってそれに気がつき、悲鳴をあげる。 「あやかし、というやつですな。ずいぶんたくさんの船が、あいつに沈められとるはずです」 「教授! そんなに落ち着いていていいんですの!」  聖良は、いささか取り乱したようすだ。もっとも、いささかですんでいるあたりが、妖怪である。ふつうの人間なら、体長数百メートルの巨大な蛇——ウナギにも似ている——なんてものを目撃したなら、とっくに気絶しているだろう。 「いやあ、かなりあわててはいるんですがね。どうやって、追い払えばいいのか、途方にくれてます」 「難しいな。台風のせいで連絡がとれなかったり、こっちに来られない者が多い。確保した戦力で、あやかしまで相手にできるかどうか」  マスターも、白い口ひげをねじりあげている。 「あれも海赤子の配下だとすれば、本人を倒せばなんとかなるかもしれませんな。あやかしは、見た目どおり獣なみの知恵しかないはず。命令する者がいなくなれば」 「無茶苦茶に暴れたら、どうするんですの、教授」 「ふむ、その可能性もありますか」 「今のわしらには、どうしようもない。みんなが来てくれることを期待するだけだな」  マスターの言葉に答えるように、お化けワーゲンが加速した。命を持つ車は、突風にも流されることなく、滝のように降りしきる雨の壁を引き裂いていく。  やがて、少し変わった形の高層ビルが見えてきた。ふたつのビルを中空で結んだ、門という字のような形をしたビルだ。まあ、この湾岸一帯は、フジテレビ新社屋やら東京ビッグサイトやら奇をてらった建造物ばかりで、かなりおとなしいほうだが。  お化けワーゲンは、そのビル近くで道路を離れて飛びだした。  貨物船が、荷揚げをする、埠頭《ふとう》に向かったのだ。  波があれ狂って、コンクリートで押し固められた地面がずぶ濡《ぬ》れになっている。  白、赤、青、緑。さまざまな色彩の、数百もの大小のコンテナが並んでいた。その隙間《すきま》を縫って、お化けワーゲンは走った。潮水と雨水のまじったしぶきがあがるが、彼のタイヤは一度たりとも地面をとらえそこねることはない。 「荷揚げ用のクレーンって、キリンがずらっと並んでるみたいですわね」  聖良が、場違いに呑気《のんき》な台詞《せりふ》を口にした。 「あれは鶴の首に似ているから、クレインっていうんですよ」  教授も、それに答える。  呑気なわけでは、もちろんありえない。せめて軽口でも叩《たた》いていなければ、緊張でおかしくなりそうなのだ。闘いに自信がないわけではないが、今まで仲間を襲ったやつらもただ者ではない。しかも、相手の本拠地なのだ。 「ここではないようだ」  マスターは、ウインドウをおろして顔を外に出し、雨に濡れながら周囲を見回した。  どこにも、海赤子とその仲間の気配はない。 「なんでもいいですから、手がかりのひとつがあれば、わたくしと教授がそろっていて見つからないってことはないんですけれどねぇ」  たとえば、髪の毛一本あれは、髪の化身である毛羽毛現《けうけげん》の聖良は、持ち主の居場所をつきとめることができる。教授は、品物にこめられた想いを感じとり、その過去を知ることもできる。彼女たちの力は、今日も役に立ったばかりだ。けれど、気配を断ってひそんでいる相手を見つけるのは、あまり得意ではなかった。あの電話は、コンテナに隠れているとしか教えてくれなかったのだ。 「しらみつぶしに調べるしかないかね」  マスターは厳しい顔つきで呟いた。そうなると、車に乗っているわけにはいかない。  雨の中に出ていくとわかって、聖良が、うんざりした表情になる。教授は、相変わらず瓢々《ひょうひょう》とした雰囲気のままだ。小脇《こわき》にかかえた古い蝙蝠傘《こうもりがさ》の柄を握っている。  そのときである。助手席にほうりだしてあった携帯電話が鳴ったのは。  マスターが、すかさず手をのばす。 「ああ、見当たらん……うん、そうか。わかったよ」  一旦《いつたん》、電話を切って、教授と聖良に向き直る。 「霧香からだ。呪法《じゅほう》のことを、渡橋さんに連絡して調べてもらったそうなんだが、なんでも海に浮かんだものの上で儀式をしなきゃいけないということでね。ここではないらしい」  その言葉を聞いて、教授が首をかしげた。 「海ですか? 船の姿はなさそうですが、しかし、なんなりと呼びだせそうな気もしますな、海の妖怪を」 「ありますわ。このすぐ近くに、浮かんでいるものが」  聖良は思いだしたのだ。ついこのあいだ、店の常連客の家族ピクニックに呼んでもらって、そこに行ってきたばかりだ。  はるばる南の果ての氷の海まで旅してきた船が、停泊しているはず。『宗谷』という名の船が。今は、観光客向けに展示されている。 「よし、頼むよ」  マスターの声に応じて、お化けワーゲンが走りだす。  すぐに、船の形をした建物が見えてきた。 <船の科学館> という施設である。庭には、深海潜水球や飛行艇が飾られている。模型ではない。実物だ。  その建物の向こう側に、宗谷が浮かんでいた。岸ぎりぎりで、陸にひきあげられているようにも見える。  だが、かすかな揺れが、氷の世界を旅してきた彼女が、なお水の上を住まいとしていることをしめしていた。 「何かいますわ!」  ぐるりと外を回って、宗谷をとりまく海面が見えはじめたとき、聖良が叫び声をあげた。  ワーゲンが、いったん止まる。  海赤子がいた、というわけではない。  いるのかもしれないが、船上の建造物の陰にいるのだろう。雨にもまぎれて、まだ見つけることはできなかった。  聖良が見たのは、船のかたわらに伸びあがる、巨大な影だった。大きいといっても、あやかしのサイズにはほど遠い。水面から、白い円筒のようなものが、宗谷の甲板まで届いている。直径は水面からの高さの半分くらい。頭のてっぺんは丸くなっていて、ずんぐりした印象だ。 「ウミボウズ? 海赤子の手先ですかしら。護衛の」 「いや、待ってください」  教授が、いつもかけているサングラスをはずして目をこらした。意外と、かわいらしい目をしている。地底に適応したこの目は、どんな闇《やみ》でも見通す。  彼が見ているのは、ウミボウズの頭上にいる三つの人影だ。 「あれの上にいるのは、かなたちゃんじゃないですか。未亜子さんに、やたさんも」  教授の呟《つぶや》きは、落ち着いたものに聞こえた。けれど、彼がじつはあわてていることは、普段しない行動をとったことでわかる。  ドアをあけずに、すりぬけようとしたのだ。彼は、大地を自由に泳ぐ力を持っている。それを応用して、たいていの物質はすりぬけられるのだ。ただし、例外もある。たとえば、妖怪《ようかい》の体だ。妖怪の肉体だけは、透過できない。そして、今、彼らが乗っているのほ、お化けワーゲン。  そのことを忘れていた教授は、鼻をひどくぶつけてしまった。 「いたたたたた」 「もう、しっかりしてくださいな。邪魔ですわよ」  丸い体をすりぬけ、柔らかい体を彼に押しつけるようにして、聖良がドアを開けた。すさまじい風と雨がふりこんできて、一瞬押し返されてしまう。  ぐしょ濡れになるまで、十秒とかからない。聖良の淡いピンクのスーツがだいなしだ。教授の、くたびれた背広は言わずもがな。 「マスター! お一人じゃ危険ですわ」  教授と聖良が、お互いを支え合うように外に出たとき、マスターはすでに遥《はる》か先を、四本の足で駆けていた。  安定性のいい、狸の姿に戻ったのだ。体長は、人間のときとほとんど変わらない。太目になったぶん、大柄に見えた。  マスターが、宗谷の中に駆けこんだとき、かなたたちは、でろんと伸ばされたウミポウズのゴンジの舌に乗って、甲板に降りたっていた。 「父さん!?」  かなたが、雨のカーテンをかきわけて駆けてくる大狸の姿を認めて、喜びの声をあげた。  彼女の前に、八環と未亜子が並んでいる。まだ、三人とも人間の姿のままだ。荒れ狂う風が、未亜子の髪を渦巻かせている。  そして、宗谷の甲板の真ん中に、奇怪な影が集まっていた。  おくるみを抱いた女を中心に、まずは六つの犬の頭を持つ金髪の女が控えている。  その隣には、全身を垂れさがった髪で包んだ女がいた。ぐっしょりと濡れているとは言え、この風で乱れないはずはないのに。そのとなりにいるのは、いがぐり頭に古風な座頭姿の、杖《つえ》をついた老人だ。  そして、ぶよぶよとしたほんのり輝く水の塊と、蟹《かに》のような人間のような奇怪な巨漢がみがまえている。  轟々《ごうごう》と唸《うな》る風、ひっきりなしに地面を叩きつける雨。騒音をくぐって、甲高い子供の声が聞こえた。 「ねえ、みんな。おいらは、これが終わってから母ちゃんと話がしたいんだ。終わるまで、邪魔させないでおくれ。でも、母ちゃんには傷一つつけちゃいけないぞ。そうだ。そこの鴉天狗《からすてんぐ》も生かしとけ。おいらのものに手を出した罰だ。とどめは、母ちゃんに刺させないとな」  海赤子が、無邪気で明るい声で言った。 「勝手なこと言うなっ! 未亜子さんは、未亜子さんは、ええと……独立した人格ってやつなんだから。勝手に所有物にして取り合うもんじゃないの……八環さんもわかってるでしょうね」  かなたが、言葉の途中で急にふりむいた。 「ああ。そうだな。けど、男同士で殴りあって決着がつくなら、それでもいいんだがな。俺《おれ》としては」  八環は、昼間、島根で出会った少年たちのことを思い出していた。一人の女の子をめぐって、じゃれあいながら走っていった彼ら。正直に、自分の思いをさらけだして。  自分にも、海赤子にも、そんなことはできないだろう。いや、そもそも彼らと自分たちを比べること自体、大きな間違いだとはわかっている。 「でもな、俺たちにこんな力がなければ……そう思うのは、ばちあたりかな」 「何をわけのわかんないこと言ってんの! こんな奴に同情することはないのよ。とっとと……」 「かなたちゃん」  未亜子の、風に吹き飛ばされそうなかすかな声。それで、かなたはぴたりと黙りこんだ。  娘をかばうように——もちろん海赤子たちから——、彼女の父である松五郎が進み出た。 「もとより、私たちも、話しあいはしてもらいたいと思っている。邪魔するつもりはない。ただし、今すぐにはじめてもらいたい」  狸の口がぱくぱくと動いて、明晰《めいせき》な人間の言葉をつむぎだした。これほど権威に満ちた父か言葉を、かなたははじめて聞いた。 「うるさいなあ。後でって言ってるだろ。おい、なんとかしろよ」  海赤子は、みるみる不機嫌な口調になると、そう命令をくだした。それに答えて、五匹の妖怪たちが動き出す。  先んじて、松五郎が口を開いた。 「あんたはギリシャのスキュラだね」  犬の首を生やした女が、松五郎に名を言い当てられてぎくりとする。 「それから、そっちのひとは針女子《はりおなご》で、あんたは海座頭だな。水のようなのは……瀬戸内海のナガレミ」  松五郎は次々に妖怪を名指しした。 「さて、あんたは知らんな」  最後の一人を見て、松五郎は首をかしげた。蟹と人間をかけあわせたような姿の妖怪は、とげに覆われた顔を複雑に歪《ゆが》めた。笑っているのかもしれない。 「余は大きく平らかなる海の彼方《かなた》より来たる、ズデンクなり。昔々、余は、パラブ族の海の神だった」  語尾は『だった』ではなく、『だた』と聞こえた。日本語は、あまり得意ではなさそうだ。 「はて……。パラブというと、確か、アンデス山脈のあたりに、十四、五世紀まで住んでた部族だったかな?」  なんでも知っている松五郎である。 「昔は神さまでも、今はただの殺し屋でしょっ」  父の肩ごしに——この体形だと、どこが肩やらよくわからないが——、かなたが怒鳴った。ズデンクの殻が、いっそう赤くなる。 「なるほど。悪いが、戦いが終わったら忘れさせてもらうよ。あんたのようなタイプは、なるべく長いこと眠っていてもらうにかぎるからな」  マスターの眼光が鋭い。  妖怪《ようかい》は、実在が信じられているかぎり、存在が忘れられないかぎり、一度殺されても甦《よみがえ》る。  こうすれば二度と生き返らないと信じられている方法で殺されないかぎり。  忘れてやるは、だから、徹底的な敵対の宣言だ。 「父さん、大丈夫なの。そんな喧嘩《けんか》を売るようなこと言っちゃって」  かなたが、不安をあらわにして言った。いまさら、である。  松五郎は特に答える必要を感じないようすで、悠然とかまえている。後ろ足で立ちあがり、股間《こかん》にはでかい袋がどでんと鎮座ましましていた。 「かなたは、マスターが闘うところを見たことがなかったわね」  未亜子の声は、海赤子さえ眼前にいなければ、こんな状況でなければ違っていただろう。たぶん、余裕の笑みを含んでいたはずだ。  それだけ、彼を信頼しているということだ。 「とっとと、やっちゃいなって」  いかにも面倒くさそうな声で、海赤子が命じた。  最後の戦いが、ついにはじまろうとしていた。 [#改ページ]  13 決意の刻  戦場は、広がった。  海赤子の手先たちは、命じられた通り忠実に、 <うさぎの穴> の妖怪たちをその場からひき離そうとしたのだ。宗谷に近づこうとした教授と聖良も、ナガレミと針女子にはばまれ、引き離された。 「髪の毛で、あたくしと勝負しようなんて!」  聖良の声は、怒りに燃えていた。  彼女がいるのは、船の科学館の中庭。子供たちのためにさまざまな遊具があり、プールもあれば、大きなメカニックが展示されている。たとえば深海用の潜水艇や、第二次大戦中の飛行艇だ。  聖良たちは、戦いながら飛行艇の翼の下をくぐりぬけ、フェンスを破って駐車場に飛びこんだ。  雨は完全に真横からふっている。その風と雨にまぎれて、針女子の髪が襲いかかってくるのだ。経かたびらのような、白い着物を身につけたこの女妖は、髪の先についた幾百もの釣り針のような鈎《かぎ》で人を捕らえ、その生き血をすする。 「きけけけけけけぇ!」  針女子が、青白く鬼火のように燃える目に、聖良をとらえ、耳まで裂けた口で奇怪な笑い声を立てた。勝利を確信しているのだ。  投網《とあみ》のように広がった、針女子の髪から逃げることはただでさえ難しい。ましてや、この雨の中だ。針女子は、つねに風上にいた。彼女に顔を向けようとすれば、まともに雨が吹きつける。とてもではないが、目も開けていられない。  だから、聖良は、その美しい瞳を閉じていた。  でありながら、彼女は針女子の攻撃を、ことごとくかわしてのけたのだ。 「残念でしたわね。相手が悪かったんですわ」  それが、髪の先についた針による攻撃でなければ、おそらく全身を鈎に引き裂かれていただろう。避けられて空を切った鈎は、飾られていた深海潜水球の外壁を深々とえぐっていた。けれど、いかに強力であれ、当たらなければ意味がない。 「髪の毛は、こういう風に使うものですのよっ」  聖良が叫ぶ。それと同時に、ヘアピンが次々とはじけとび、高く結い上げられていた彼女の髪が、風と雨を無視してふわりと広がった。  聖良の髪は長い。足もとまでを、すっぽりと覆う。  その中で、彼女の手足が縮んでなくなった。胴体もかき消える。残ったのは、きらきらと輝く美しい瞳だけ。  これが彼女の真の姿。髪の化身たる、毛羽毛現。古い一族だ。聖良は、もっとも若い一人であると同時に、最強の一人でもあった。  目が見えなかろうが、耳が聞こえなかろうが、髪の接近を察知できぬ彼女ではない。  よじりあわされた髪縄が、飛来する鈎髪をことごとくからめとる。ピンと張った鈎髪は、次の瞬間には耐えられず、ぷつぷつと切れた。  針女子が悲鳴をあげる。確かに彼女は、敵の選択を間違えた。 「日ごろのお手入れがよろしくありませんわね。今度、復活したら、うちのお店にヘアケアLにおいでなさい」  三方向から迫った、三本の髪鞭が、針女子を打ち砕いた。 「必要なのは、その玉かな?」  松五郎は、甲板に置かれた水晶球を指差した。八環が、一声叫んで真空の刃を叩きつける。  水晶が割れる音は、嵐にまぎれてしまった。 「何てことするんだ! せっかくの……ええい! こいつら殺せ! 呪法はそれからだ」  海赤子が怒鳴った。何のために呪法を行おうとしていたのかはすでにどうでもいいらしい。彼の怒声に応えて、三妖が動く。 「きみたち、邪魔はいかんな。邪魔は」  松五郎に立ち向かったのはズデンクだった。スキュラと海座頭は、それぞれ未亜子と八環を押さえようとしたのだ。  だが、松五郎は、それを見過ごしてはいなかった。海赤子と未亜子を対決させること。八環が彼女を手助けすること。それが事件の解決に重要だと、彼はすでに心得ていたのだ。 「ぽんっ」  松五郎は、丸い腹をひとうちした。  腹がばこんとふくらんで、ぐんぐんぐんぐん大きくなる。それが見る見る真っ赤になって、手足から指が消え、にょろりと伸びた。  あっという間に、松五郎は数メートルもの脚を八本持った、大蛸《おおだこ》に変身していた。  吸盤を持った脚が、スキュラと海座頭に巻きつき、ずるずるとひきずりよせる。ズデンクが、蟹のハサミでじょきんと脚を一本切り落としたが、その程度では痛くも痒《かゆ》くもない。  三人の敵ごと、松五郎の化けた大蛸が海に落ちた。自分で飛びこんだのだ。 「父さん!」  かなたが悲鳴をあげる。 「行きなさい」  未亜子が、静かな声で言った。ほんの一瞬だけ、かなたは迷った。ここまでつきあったのだ、結末をこの目で見たい。けれど、父のことを考えれば、それどころではなかった。  手すりをのりこえ、海に飛びこむ。その途中で、下半身が魚のような姿に変わっていた。  高い高い水しぶきがあがる。  そして、宗谷の甲板に残ったのは、未亜子と八環、そして海赤子の三人。くわえて、海赤子を抱いている女。 「じゃあ、話しあいとやらをはじめるか」  八環が言った。彼の周囲では、風はいくらか穏やかなようすだ。 「何言ってるんだ、お前」  海赤子の声は、とことんまで憎々しげだった。 「いいえ、話すのよ。これから、わたしたちがどうなるのか」  未亜子の顔は、すでに雨のせいでびしょ濡《ぬ》れになっている。声が震えているのは、寒いからか、それとも風が震わせているのだろうか。 「そんなことする必要ないよ。母ちゃんにちょっかいをかけた奴《やつ》は死んで、おいらのところに戻ってくるんだ。命乞《いのちご》いしてもだめだよ。母ちゃんが悪いんだからね。おいらを何年も海底でほうりだして」  海赤子がまくしたてる。八環は、かっとしたようすで口を開きそうになった。 「そうかもしれないわ」  未亜子が、静かに言う。八環が、彼女の言葉を聞いて静かになった。だが、海赤子のほうはますます調子に乗っている。 「そうだろ! そう思うんだろ! だから、素直においらのところに帰っておいでよ」 「無理ね」  未亜子の声音は優しかったけれど、きっぱりとしていた。ふつうなら反論など思いつきようもない、鋭い切れ味のある言葉だ。けれど、海赤子は、おくるみの中から、さらにきっぱりとした言葉を返した。 「無理じゃない。お前をしばりつけるものは、全部海の底に沈むんだ。邪魔せずに見てろ」 「沈められちゃかなわんなぁ!」  八環は、そう怒鳴って、皮肉な笑いを口もとに浮かばせた。笑わなければ、激発してしまいそうだったからだ。 「邪魔させてもらうぞ!」  八環が、翼を広げた。雨が散らされて、しぶきがはじける。 「話しあい……は、お尻《しり》を叩《たた》いてあげてからかしら。佳乃子たちなら、それで学んだわ」  正面から、雨が未亜子の顔を殴りつける。瞳の中に水が飛びこんでも、彼女は眉ひとつ動かさない。 「ていうことだ。母ちゃんの言うことは聞きな、坊主」 「てめえを、誰よりも先に殺してやるよ」  海赤子が、おくるみの奥から憎悪の塊りのような声を投げつけた。同時に、女がおくるみをかかえこんで、八環に背を向けた。へたに攻撃すれば、彼女に当たるだろう。 「くっ」  八環が呻《うめ》いた。激しい雨の中、もはや風にも舞うことがないほど、女の服は水を吸いこんでいる。ぐっしょりと濡れた背中ごしに、ふくよかな赤ん坊の手がつきだされた。鈎型に曲げられた指先が、八環の心臓を狙《ねら》っている。  心臓盗み。  それが、海赤子のわざの名だ。念力で形作られた、実体のない見えない手が、本当の手の動作にあわせて相手の胸の奥深くえぐりこまれる。それは、胸板を引き裂いて、心臓を掴《つか》み出す。鮮血を噴き出す心臓は、空間を転移して、海赤子の本当の手に落ちるのだ。 「お待ちなさい、坊や」  彼女が駆け上がってくる足音は、雨が消した。けれど、その叫びまでは風も吹き飛ばせなかった。  霧香である。  彼女は、一人の若者を連れていた。金茶色の髪、耳にはピアス。がりがりに痩《や》せている。顔をそむけて、自分たちが登ってきた金属製の階段ばかり見ていた。 「六辻さん」  霧香は、おくるみを抱いている女に呼びかけた。声をはりあげている。さすがに、風に対抗するにはそうしないと無理だ。 「その子の父親を連れてきたわ」  と、彼女は言った。  科学館から、少し離れたグラウンド。土がむきだしになった地面は、もうすでに泥沼状態になっている。  彼自身のホームグラウンドとでもいうべき環境で、教授は、ナガレミによって危機におちいっていた。  全身にまとわりつかれ、顔に貼《は》りつかれて、呼吸を封じられていたのだ。  あらゆる物質を透過する彼の妖力が、唯一通用しないもの。それが、妖怪の肉体なのだ。 『これは参りましたな』  教授は、ぼんやりとしはじめた頭で思った。 『肺活量には自信があったつもりだったんですが。どうせなら、酸素が必要ない体に生まれついていると、こういうときも困らなかったんですがねぇ』  土竜《もぐら》の精である彼は、あくまでトンネルを掘って地中を進むのが本道。地面を、痕跡《こんせき》を残さずに透過することもできるが、息が続かないから、もぐりこんだままではいられない。 『こっちの武器は通じませんしな』  ナガレミの体は、液体だった。教授の武器は、地斬波と名づけられた妖術である。大地を従えて、刃にする術だ。だが、どんなに鋭い刃でも、水は切れない。すべて素通りさせられてしまったのだ。そうなると、教授になすすべはなかった。飲みこまれて、窒息させられようとしている。 『指ひとつ動かせんとは、困り……おや?』  さきほど、攻撃したとき、確かにナガレミは水だった。だが、今は違っている。教授を取りこんでおくためだろうか。ねばついている。なかば、固体化しているのだ。 『ふむ? もしかすると』  いちかばちか、賭《か》けてみるしかない。  失うものは、ないのだし。 『せーのっ』  頭の中で掛け声をかけて、教授は地斬波を噴きあがらせた。自分の真下から、包みこんでいるナガレミを両断できるように。  地面が一瞬で変形し、あらゆるものを断ち割る斧《おの》になる。 「ぎょえええええ」  切り裂かれつつある全身を震わせて、ナガレミが叫びをあげた。断末魔だ。効いている。  まっすぐに噴きあがった大地の斧は、教授をも股間《こかん》から真っ二つにしようとした。だが、これも物質。 『!』  教授は、物質透過の妖力で、地斬波をすりぬけさせたのだ。  彼の頭頂部から飛び出して、大地はもとの形を取り戻す。  もう、それで充分だった。  左右に分かたれたナガレミは、まだ地面に落ちる前にただの海水に戻り、雨にまじって消えてしまう。  教授も、大地にほうりだされた。しぶきをあげて倒れこみ、しばらくは大の字に寝転がったままで、呼吸を整えていた。 「やれやれ、タイミングが少し狂ったら、わたしも同じ目にあうところでしたね。ふむ、『優』をいただいてもよろしいかな」  動きの鈍さは教授も自覚するところだ。 「さて、他のみなさんはどうしてらっしゃるかな」  教授が、半身を起こす。  ぐるっと周囲を見回して、宗谷のある方角を見て頭が止まった。  押し寄せる波が宗谷を揺らす。だが、甲板上には、この程度でバランスを崩すような者はいない。  一人をのぞいて。 「彼の名は、中道《なかみち》志津夫《しづお》。あなたの子供の父親に間違いないわ、六辻妙子さん」  霧香は、叱《しか》りつけるような声でそう言った。 「ち、違うよ、俺《おれ》は……そんなの、わかんねえじゃんかよ」  彼女にひきずられている若者は、正面を見ようとしない。  風に押されているわけでは、ないようだ。 「おい、こら、どうした」  海赤子が、声をあららげた。  おくるみを抱いた女——六辻妙子が、彼を抱いたままでくるりとふりむいたからだ。 「何をしてるんだ、こら」  海赤子が怒りの声をあげた。目標である八環が、心臓盗みの効果範囲からはずれてしまったからである。  けれど、怒声は妙子に届いていなかった。彼女は海赤子を、生まれるはずだった子供の代わりだと、思っていた。たった今まで、彼女がこの世に存在する理由のすべてだったもの。その海赤子から、彼女は視線をはずしていた。  青年、この子供の父親だと思っている彼を見つめるために。 「お、おいっ?」  海赤子があわてた声をあげる。妙子が、ゆっくりと彼をさしだしたからだ。前に、志津夫に。 「よ、よせよっ」  海赤子が、狼狽《ろうばい》した声をあげた。吹き募る風が、彼をさらっていきそうになったからだ。けれど、心配するようなことはなかった。妙子は、決して彼を手放そうとしているわけではなかったからだ。 「あなたの子供よ、抱いてやって」 「ひいっ」  中道志津夫が、悲鳴のような声をあげた。妙子の顔は、骨と皮だけに痩《や》せ細り、目ばかりがぎらぎらと輝いていた。生きているのが不思議なほどだ。いったい、どうやって、この暴風雨に耐えているのだろう。 「だ、駄目なんだっ。やだよっ、俺っ」  中道志津夫が叫びをあげる。けれど、逃げようともしない。腰を抜かしているのだ。視線は妙子の顔に貼《は》りついている。恐ろしすぎるものからは、かえって目が離せなくなるものだ。 「さあ、言っておあげなさい」  霧香が、志津夫の肩を掴《つか》んだ。 「ひい」  青年が、座りこんだままで飛びあがった。霧香に、よほど嚇《おど》かされたのだろうか。 「なるほどな、そいつが」  八環がうなずく。目に怒りが宿っている。ここへやってくるまでに、電話で、霧香からの情報は聞いていた。  霧香は、おとといの夜に出会ったときに、六辻妙子の素性を見抜いていたのだ。昨日は、蔦矢と手分けをして一日彼女のことを調べていた。  六辻妙子は、平凡なOLだった。中道志津夫という若者とつきあっていた。彼女の妊娠が判明した直後、彼は行方をくらました。妙子も、それから数日していなくなった。志津夫のほうはたいして日を置かず姿をあらわしたが、妙子はそれ以来二ヵ月たらずのあいだ、まったく消息がつかめていなかったのだ。  彼女と志津夫の事情がわかれば、海赤子がどんな手を使って彼女をとりこにしたのか推測するのは難しくなかった。  霧香は知っていた。未亜子に教えられるまでもなく。  海赤子は女の腕に抱かれていないと、その力を完璧にふるうことができないのだ。赤ん坊は母の力を借りて何かをなすものだと、人間はそう考えているから。  海赤子は、そのために道具として妙子をとりこんだ。  だから、妙子を解放するために、霧香は志津夫を捜し出したのだ。 「ねえ、しーくん。あなたと私の子供だよ。抱いてあげてよ」 「ち、違うだろっ。俺の子じゃねぇ」  志津夫が悲鳴をあげる。声量だけはたっぷりあった。台風にも負けないくらい。 「あなたの子よ。あたし、あなたとしか……」 「お前の子でもないだろが! 俺とお前の子供は死んだんだっ! 俺が、俺が、俺が殺させたんだぁ!」  喉《のど》も破れよと、志津夫が叫ぶ。 「……あ」  妙子のくちびるが震えた。 「嘘《うそ》、嘘よ。ここにいるのに。ここにいるもの。死んでないもの」 「死んだんだよっ。俺は、お前のことは……はじめっから遊びだったんだっ」  そう言い捨てて、中遺志津夫が立ちあがった。駆けてゆく。逃げてゆくのだ。 「待って……」 「追いかける必要なんかないんだ」  八環が、妙子に声をかけた。誰も、もう志津夫のことなんか気にしていなかった。 「わかったろう。あいつなんか捨ててやれ。捨てられるんじゃない」 「そんなこと、そんなこと言われたって……あたし、できやしない」 「できるわ。認めなさい。その子のことも含めて、事実を見るの」  未亜子の声は、相変わらず静かだった。それなのに、激しい風すら越えて、妙子の胸に届いている。 「だって、あたしだけじゃ駄目なんだもの。あたしだけじゃ生きていけないの。誰かいないとだめなの。志津夫に会ってわかったのよ。誰かいないと、寂しい。寂しくて、寂しくて、寂しくて、寂しくて」  妙子の口から、言葉があふれ出る。 「おいらがいるだろ。な、おいらがいるよ」  海赤子が猫なで声で言う。甘えきった声だ。けれど、それは妙子の耳には届いていない。 「あなたでは駄目なのよ」  未亜子が言う。自分すら切り裂くような、鋭い声で。 「駄目だとわかった。どうして駄目なのかわかるかしら?」 「おいらは完璧《かんぺき》だ。駄目なんてことがあるもんか。母ちゃん、お未夜、おいらのところに帰って来い。こら、母ちゃんを呼び戻すためだ、ちゃんとおいらをあっちに向けろ」  海赤子がわめく。けれど、妙子は、手を前にさしのべたまま、動こうとしない。 「あなたでは駄目。母親が子供を育てる理由がわかる? 感謝して欲しい、愛して欲しい、でもね、いつまでも変わらないようじゃ駄目なの。成長してくれない子供は、育てても意味がないの……それは寂しいわ。寂しくて、歪《ゆが》むわ」  未亜子は、ぽつりとそう言った。 「人間なら、どんなにゆっくりとでも成長する。妖怪《ようかい》だって、そうしようと思えばできる。でも、あなたは……」 「何をわかんないことを言ってる。おいらは、これでいいんだ。完全なんだ。それを変えようとするやつが、いけないやつなんだよ」  海赤子が、吠《ほ》えるように叫んだ。彼らのやりとりは、すでに吹き荒《すさ》ぶ風を圧倒している。 「妙子さん」  そう声をかけたのは、霧香だ。 「あなたが抱いているのは、ただの幻よ。でも、その気になれは、本物を抱くことだってできる。あなたにだって、もうわかっているはずよ。志津夫くんとのあいだにあった愛も、幻だったこと」  妙子が、いやいやをするように首をふった。もちろん、わかっていた。そんなことは、とっくにわかっていた。  彼女はまだ、狂いきってはいなかったのだ。狂いたくなかったからこそ、海赤子がさしだした幻影にすがった。  霧香は、妙子が正気であることも見抜いていた。彼女は鏡。あらゆる事実を映しだす。 「狂気に逃げなかった。それは、あなたが強いひとだからだわ」  霧香はそう言った。今なら、無防備な彼女の記憶も見える。自殺しようとしていたときの、海赤子との出会い。けれど、霧香は見てとった。そのままほうっておいても、妙子はきっと自殺しなかったはずだ。彼女の心の奥にある強さを感じとった。  だから、説得できると信じた。 「あなたが抱いているものをよく見なさい」  霧香の思いに答えるように、未亜子が言った。その言葉に答えるように、妙子がゆっくりその手を引き戻していく。 「そう、そうだ。戻せ。おいらをかばえ。あいつらはお前を殺せない。だから、こんな言葉で惑わせようとしてるんだぞ」  海赤子が言う。その声にかすかなあせりがある。 「彼女がいなくても、力がふるえるようになればよかったのよ。わたしがいなくなった時に。できなかったのがどうしてなのかわかるわ。あなたは不安なのよ、変わることが」  未亜子が、海赤子に向かって言った。彼が反論する前に、彼女は妙子にこう呼びかけた。 「その子は、あなたをむさぼるだけ。無償の愛なんて、そんな考えは捨てなさい。対等でない愛は、自分をおとしめるだけ、相手を歪めてしまうだけ。それはね、ただの言い訳なの。愛してもらえない自分を認めたくないから。そう言い訳して、いつかふりむいてもらえる日を待っているだけ」  その一言一言が、未亜子自身を傷つけていた。記憶が刃《やいば》になって、今の彼女を切り裂いてゆく。 「だから、愛するなら応えてくれるひとにしなさい。どんな応え方でもいい。愛にはいろんな形があるのだから。でも、その子には愛はなかった……」  未亜子の言葉を聞きながら、妙子は海赤子の口もとを見つめた。いくどとなく彼女の乳房に突き刺さった、鋭い牙《きば》を。 「……わたしは、気づくのに何百年もかかったわ。あなたは、どれほどかかるかしら。できるわ、きっと。弱かったわたしにできた。強いあなたにできないはずない」  未亜子の言葉が終わると同時に、妙子は悲鳴をあげて海赤子を放り投げた。 「くそっ。こうなったら! お前ら、みんな滅ぼしてやるっ!」  その声から、すでに正気は失われていた。怒りと嘆きと悔しさが、彼をはじけさせたのだ。海赤子は、空中で鋭い口笛を吹き鳴らした。 「グドゥ! バンガ! ポロマコ!」  プールの横に屋外展示されている、二式大艇の太い翼のうえに立ったズデンクが、あやしげな呪文《じゆもん》を唱える。  彼のはさみの先に、緑色の奇怪な炎が宿った。  飛び出した眼柄の先についた目が、ぎょろりと松五郎を睨《にら》みつけた。狙いをつけているのだ。 「神の罰、山の灯《とも》し火。この炎、神の怒り買ったもの、すべて喰らう火」  松五郎は、狸の姿に戻って地面に倒れている。満身創痍《まんしんそうい》だ。脚が四本とも血まみれになっていた。雨がどんどん洗い流しているが、それより早い速度で吹き出している。くわえて、片方の目に海座頭の杖《つえ》を突き刺されていた。  目を一つなくしたのが、まず最初だった。  宗谷から落ちた、海中でのことである。もっとも、目の代償に海座頭は斃《たお》されていた。大蛸に化けた松五郎に、五体をばらばらに引き裂かれたのだ。  ただの三対一の戦いであれば、そのまま海中で松五郎が押しきっていたかもしれない。  けれど、敵の一体はスキュラだった。化け狸一族の天敵は犬だ。その姿を見れば、体が恐れてしまう。犬の牙《きば》は、狸の毛皮を貫く。スキュラは、その犬の首を六本も備えているのだ。  長く生きている松五郎は、恐怖を克服する精神力は身につけていた。脚を巻きつけて、四匹までの首をへし折ったのだ。  しかし、犬の牙の鋭さだけはいかんともしがたい。七本の脚を喰いちぎられて、松五郎はもとの姿に戻った。  次は、トウゴロ——フライングキラーに化けた。アマゾンの奥地にだけ住む、肉食魚だ。ピラニアのように鋭い牙をもち、トビウオのように跳ねる。陸にあがって、狸の姿に戻った。  この次に何に化けるか。それを定める前に、スキュラが追いついてきたのだ。  後ろ脚の腱《けん》を二本とも噛《か》み切られて、松五郎は倒れた。 「父さん!」  叫んで駆け寄ろうとしたかなたの前に、スキュラが立ちはだかる。彼女の体は、こわばってしまった。ほとんど生理的な反応なのだ。気分はあせるが、どうしようもない。  かなたを押さえこんだスキュラの代わりに、松五郎のとどめを引き受けたのが、ズデンクだ。緑の炎を投げつけようと、大きく腕をふりかぶる。 「うわあああああ!」  かなたは叫んだ。やみくもに突撃する。大きく開かれた二つの顎《あご》が、真っ赤な罠《わな》としてかなたを待ち受ける。  けれど、そのとき。 「ふわっ?」  かなたの体が宙に舞った。妖犬《ようけん》たちの牙が、むなしくガチンと音を立てて閉じられる。 「蔦矢くん?」  重傷を負って、病院にいるはずの蔦の木の精。 <うさぎの穴> の仲間のひとり、加藤蔦矢だった。重傷は間違いないようだ。左手は吊《つ》るされているし、額にも包帯が巻かれている。傾いて立っているのは、風のせいだけじゃないはずだ。脚だって痛めているに違いない。  彼の手は、長さ数メートルの鞭《むち》になっている。その鞭が、かなたの腰に巻きついていた。無防備に牙の中に飛びこもうとしたところを、引き戻したのはこの鞭だ。 「は、離してよ、蔦失くん。父さんが」  かなたはもがいた。 「後はまかせて」  その彼女の横を、弾丸のような速度で走り抜けていった影がひとつ。  真っ黒い、伝説の悪魔にも似たシルエット。屈強な戦士の肉体、剣のような鉤爪《かぎづめ》、暴風をものともしない、力強い、蝙蝠《こうもり》に似た翼。 「摩耶ちゃん?」 「うん」  かなたの横に、少女が並んでいる。  守崎摩耶。はじめての、人間の親友だ。  飛んでいった影は、夢魔。摩耶の、抑圧された心から生まれた妖怪だ。長い葛藤《かっとう》の末に、摩耶は、最近になってようやく夢魔の存在を受け入れることができた。まだまだ気安く使えるわけではない。自分の醜い心を、眼前につきつけられるような気分なのだから。  だが、今の摩耶は、汚いののしり言葉をあげて暴れる夢魔から目をそらさない、強さを持っている。 「ああ、やっぱりだめっ」  かなたが悲鳴をあげた。夢魔も、スキュラに邪魔された。残り二匹の犬を締めあげているが、そこまでだ。 「スキュラ! そいつ、まかせる!」  夢魔は、ズデンクにたどりつけない。呪《のろ》いの炎を宿した、その腕がふりおろされようとしたとき。  空からふりそそいだ一条の稲妻が、飛行艇の翼を打った。  はじけて、折れる。 「ペグっ?!」  部族の言葉で、ズデンクがののしりの声をあげる。蟹《かに》男は中空にほうりだされた。ほんの短い距離を落下して、濡《ぬ》れた地面に叩きつけられる。妖怪の肉体が傷つくほどの高さではない。  けれど、プライドはずたずたになっただろう。  秋の台風に、雷があらわれることは珍しい。もちろん、自然の電光ではなかった。 「動けない相手でも、怖くて近よれないのか、卑怯《ひきよう》もの!」  空から、ズデンクを睨《にら》みつけている黄金色の輝き。 「流くん! もう大丈夫なの?」  龍の鱗《うろこ》は完璧《かんぺき》ではなかった。胸のあたりに、大きな傷跡がある。いや、まだ体液がかすかに、にじみ出ているのだ。 「まあな。こんなときに、ベッドで寝てるわけにいかないだろ。ヒーローがさ」 「ばか……」  かなたは目もとをこすった。たぶん、雨粒が飛びこんだのだろう。口もとが笑っている。 「ほんとに、無茶だわ」  摩耶のほうは、少し怒っているような顔つきだった。 「気楽なことを言ってる、今のうちだけ」  ズデンクが、空に向かってはさみをふりかざした。 「余は卑怯ものでない。空から、背中から射つ。お前が卑怯」  奇妙なイントネーションで、ズデンクが挑発の言葉を口にする。 「おう! 今すぐ、そこまでおりてってやるよ!」  流が急降下する。  稲妻がほとばしり、白銀色の爪がうなる。あっという間にズデンクはズタボロにされた。そこに、立ち直った松五郎がくわわる。 「これなら、もう負けない、よね」  かなたが、落ち着いたのを見て、蔦矢が腰から鞭を巻き取った。 「う〜ん、そう思いたいけどね……あいつの相手はちょっときつそうだなぁ」  蔦矢は、海を見ていた。波が荒れ狂っている。小さな家くらいは飲みこめそうな波だ。  そのさらに向こうに、巨大な黒い津波が迫っていた。 「あいつ……何よ!」  かなたが悲鳴をあげる。  あやかしが、こちらに向かってきている。全長数百メートルの海蛇が。足止めしてくれていた、ウミボウズのゴンジの姿は見えない。あやかしが、のしかかるだけで、宗谷も沈む。 <船の科学館> も倒壊するだろう。  確かに、いくら仲間たちがそろっていても、この怪物に立ち向かうのは、容易ではない。  この戦いに駆けつけたみんなが、その光景を見ていた。圧倒されていた。  ぬぅっと、空中に伸びあがった巨大な影。  あやかしである。  三十メートルあまりの高さから、宗谷の甲板をのぞきこんでいた。赤い、ひとつきりの目がぎらぎらと輝いている。真っ暗な体は、雨に濡《ぬ》れたのとも海水とも違う、ぬめぬめした何かに覆われていた。  六辻妙子は気絶した。未亜子が抱きかかえる。八環は、翼を大きくはためかせた。ふわりと宙に浮かぶ。視野の片隅に、夢魔と流が駆けつけてくるのが捉《と》らえられた。  勝てるかどうか、いや、そもそも戦いになるのかどうかすら、今の彼は考えていない。  八環が望んでいるのは、ただひとつ。未亜子を守ることだけだ。  あやかしが、乗用車を一|呑《の》みにした巨大な口をぱっくりと開く。 「やれよっ!」  海赤子が怒鳴る。彼は、宗谷の甲板から、少し離れた空中に浮かんでいた。いや、水面に浮かんでいるのだ。宗谷の甲板よりも少し高いところにまで伸び上がってきた波。それが、あらゆる物理法則に反して、そのままの形で固定され、彼を支えているのだ。  すうっと、あやかしが息を吸った。まだ、八環は届かない。誰も、間に合わない。 「未亜子おっ! 逃げろぉ!」  彼が叫んだその声は、どどどどという轟《とどろ》きに打ち消された。  あやかしの口から、それに等しい直径の激流がほとばしったのだ。いや、激流だったのはほんの一瞬だけのこと。牙の一角から、かかっと火花が散った瞬間、それは長大な火柱に変わっていた。  直径数メートルにおよぶ、強大な火箭《ひや》が宗谷の甲板上の未亜子に向かう。いや、その炎の舌の尖《とが》った先端は、まず霧香を呑みつくす。それから、未亜子と妙子だ。いかに彼女たちでも、あやかしの油が燃える、超高熱の炎はふせげない。  海赤子は、そう考えていた。八環ですら、霧香の本当の力を知らなかった。  炎が届く、その寸前。霧香の体が、輪郭線だけを残して、すうっと透明になった。全身の表面が、鏡になったのだ。戻ったと、そう言うべきだろうか。  炎は、彼女の表面ですべった。曲った。跳ね返された。  まっすぐに、あやかしの喉《のど》の下あたりに突き刺さる。  なんとも形容のしようがない悲鳴があがった。あやかしの体を覆う油が燃えあがった。いにしえには、船をまたいで、この油をふらせて転覆させていたという。変に、火を使うことなど覚えなければ、こんな目にはあわずにすんだだろうに。 「まあ……昨日の分、今日は運がよかったようね」  霧香が呟いた。  これが、彼女の切り札だ。彼女は鏡。どんなに強大なエネルギーでも、打撃でも、あらゆる攻撃を跳ね返すことができる。ただし、困ったことがひとつあった。もときた方向に跳ね返すのではなく、まったくのランダムな方角に屈折させてしまうのだ。  昨夜、ギリシャ妖怪《ようかい》のグラコウスに襲われたときは、跳ね返した敵の攻撃が蔦矢を傷つけた。  だから、霧香は決して負けることはない。勝つことも少ないし、まわりに味方がいると、よほど追いつめられなければ使わないのだが。 「もしも、あなたのほうに飛んでいったらと思って、ひやひやしてたんだけど」  霧香は、未亜子をふりかえった。けれど、彼女の数百年来の親友は、その言葉を聞いていなかった。  宗谷が、ぐらりと揺れる。それにあわせるように、未亜子は妙子のぐったりした体を霧香へと投げてよこした。 「ちょ、ちょっと」  未亜子の視線は、海に向かっていた。  あやかしは、逃げた。のたうちながら海にもぐる。炎を消すには、酸素を遮断するのがいちばんだ。燃える油が海面に広がった。  その炎は、風にあおられ、雨に叩《たた》かれて小さくなっていく。完全に消えてしまう前に、海赤子のところに到達していた。 「うわあっ」  集中が乱れ、水面が崩れた。あやかしは外海めざして逃げていく。やつの動きが大波を起こした。海赤子がそれに翻弄《ほんろう》される。  彼だけではない。宗谷も大きく揺れた。立っていられたのは、未亜子だけだ。霧香は、片方の手で妙子を掴《つか》み、もう片方を手すりに伸ばした……届かない。 「おっと、大丈夫か?」  甲板から、ころげおちそうになったとき、八環が来てくれた。一瞬で、二人まとめて、陸へおろしてくれる。  彼は、すぐに甲板に戻った。  そこでは、未亜子が濡《ぬ》れ女の姿に戻っていた。すっと背筋を伸ばし、風にも雨にも屈することなく、ほぼ真下を静かな表情で見つめている。  彼女の足もと——とぐろを巻いた蛇体の直前には、おくるみもはがれて、白い体がころがっている。海赤子が波でここに叩きつけられたのだ。 「なあ、そんなに怒んないでよう。ついかっとなっちゃったんだよう」  海赤子は、そう哀願していた。  八環は、甲板におりて走りよった。  海赤子が、その気配を感じ取ったのか、彼のほうをじろりと見た。にんまりと笑う。 「止まれよ、お前——」  あはははと笑い声をあげながら、海赤子はそう命じた。 「ひひひ、未亜子、おとなしくしろよ! お前の大事なこいつを殺すぞ。あの女から吸った力は、まだ一回分くらいは残ってんだからな」  海赤子の手が、八環めがけて伸ばされる。  あと五歩。そこで、八環は足を止めた。 「やってみろ」  そして、低い声で言った。 「心臓をえぐられても、お前の首ねっこをへし折ることくらいはできるぞ」 「それがどうした? おいらは死なないんだ。死ぬのはお前だけさ」  八環は、奥歯をぎりりと噛《か》みしめた。未亜子と会えた後で、そのことを確かめるのをすっかり忘れていた。海赤子は心臓を別の場所に預けてある。それを破壊しなければ、やつを滅ぼすことはできないのだ。  だが、それでも引き下がるわけにはいかない。大事なものがかかっているのだ。 「死ななくても痛いさ。子供は、痛みで成長するもんだ」  体の痛みも、心の痛みも。ほんの二晩で自分も成長したと八環は思う。妖怪たちにとって、この自覚は何よりも嬉《うれ》しいことだ。 「いいさ、好きにしろよ。お前がいなくなった後で、おいらは母ちゃんを説得して、楽しくやり直させてもらうさ。どうせ、母ちゃんにはおいらは殺せないんだ。しばらく一緒に暮らしてれば、また元の鞘《さや》におさまるさ」  海赤子の、明るい声。 「いいえ」  未亜子は、ぽつりと言った。とても哀《かな》しそうな顔で、とてもほっとしたような顔で。 「いやよ。今みたいなあなたと暮らすのは、死んでもいや」 「待てよ、おい。どうするんだよ! まさか、……まさかだよね、そんなことしないよね」  高飛車な言葉から、甘える子供に。海赤子の声は、劇的と言っていいほどの変化を見せた。けれど、それにかまわず、未亜子は自分の胸に手を伸ばした。鋭い鉤爪《かぎづめ》が、ゆっくりと豊かな乳房にもぐりこんでゆく。ゆるやかにもりあがり、流れ出た真紅の血が雨に洗われてゆく。 「よせ、よせって、母ちゃん! おいらの心臓は、母ちゃんの心臓だぞ。つぶしたら、母ちゃんだって」  そうか、と八環は思った。だから、海赤子は、いくら怒っても未亜子に心臓盗みをしかけることはできなかったのだ。  ……それだけの理由だろうか。 「やめてくれよぅ。嘘《うそ》だろ? 前だって殺さなかったじゃないか。五百年もかかったけど抜け出す隙間《すきま》をこさえといてくれたじゃないか。他の男ができたとたんに、おいらを捨てるのかよぅ」  海赤子の声は、はっきりと泣いていた。 「彼がいるからじゃないわ。今のあなたが必要ないだけ」  乳房が切り裂かれる。その奥で脈動する命の源が見えた。 「子供は、ときには叱《しか》らないと駄目なの。愛しているなら、愛しているからこそ、見捨てなければならないこともあるわ」  未亜子は、心臓をえぐりだした。ゆっくりと鉤爪が閉じてゆく。 「やめろおおおおおおお!」 「未亜子、よせっ!」  男たちの叫びが交錯する中、女は、おのれの心臓と、過去とを握りつぶした。  未来のために。 [#改ページ]  14 そして……あらたな命 「俺《おれ》は結局、何もできなかったな」  きいきいと鳴る椅子《いす》の背もたれに、不精髭《ぶしょうひげ》の浮いた顎《あご》を乗せて、自嘲《じちょう》ぎみに八環は呟《つぶや》いた。彼が思っていた以上に、未亜子は強かった。自分が見ていたもろさは、幻想だったのかもしれないと、八環は考えていた。 「そんなことはないわ」  未亜子が、ベッドの中で言った。白い衣をまとった上半身を起こしている。シーツも白、彼女の肌も白。大きな窓からさしこむ朝日をきらきらと跳ね返して、まぶしい。きらきらとした輝きは、目に痛いほどだ。その光の中で、赤いくちびると黒い髪だけが目立っている。  病院だ。 <薬元堂> のコネである。うるさい検査はされない。ベッドと医薬品だけ貸してもらっていた。隣の部屋では、有月と蔦矢が眠っているはずだ。蔦矢は出戻り組である。流は、もとの病院に帰った。蔦矢も流もかすり傷がいくつか増えただけだ。スキュラもズデンクも、完膚なきまでに滅ぼされた。神話が残っているかぎり、よみがえってはくるだろうが。  教授と聖良は、疲れていただけだったので、さっさと家に帰った。お化けワーゲンが送っていったのだ——錆びの苦手な彼は、海辺の戦いに近よれなかったのである——。二人とも、一言の文句もなかった。聖良は、いつか時期が来たら、全部事情を教えてもらうと約束させて。教授は、八環の肩をぽんと叩《たた》いて。そして、帰っていった。  松五郎は、この病院にはいない。かなたも知らないどこかにある�秘密の隠れ家�で、傷を癒しているはずだ。未亜子と八環に『素直になんなさい』という一言を残して。  その他の妖怪たちも、台風が去り、始発電車が動きはじめるとともに、それぞれの生活に戻っていった。  向かいの個室には、六辻妙子がいる。彼女は、よく眠っていた。  台風の翌朝。雲はすべて、風に吹き払われた。  疲れて、傷つきもしたけど、それはすべて癒えるだろう。 「ひとりでは変われない。強くもなれない。あなたが、あの洞窟まで迎えに来てくれたから、あたしは……」 「そうしてもらいたいから、手がかりを残してたんだろ。やっぱり、俺はお前にあやつられてたような気がするぞ」  片方の目をつぶり、くわえ煙草で八環は言った。火はつけていない。 「でも、あたしがここに生きているのほ、あなたのおかげよ」  八環は、いぶかしげに片方の眉《まゆ》をあげてみせた。 「だって……、心臓をなくした後に、生きる意志がふるい起こせたのは、あなたがいてくれたおかげだわ」  心臓が握りつぶされた瞬間に、海赤子は消滅した。幾多の歳月が、いちどきに襲いかかったように、塵《ちり》になってしまったのだ。けれど、未亜子はそうならなかった。  それは絶望と恐怖しか残されていなかった者と、希望と愛を抱いていたものの差だと、聖良は恥ずかしげもなく言ってのけたものである。彼女は、こういう解釈と表現が大好きなのだ。  ともあれ、未亜子は生きのびた。駆けつけてくれた仲間たちの助けもあった。何よりも彼女自身が生きようとしたからこそだ。  このまま滅びるのもいいかもしれないと、あのときは考えていた。けれど、八環の叫びが想いが、彼女をこちらにとどめたのだ。 『行くな! 俺の手を離すな! 俺にしがみつけ!』 「あの子は、たぶん、また帰ってくるわ」  未亜子のその言葉を聞いても、不思議と自分の心が波立たないことを八環は感じていた。それは、あいつから、あの子に、海赤子の呼び名が変わっていたからかもしれない。 「そうなのか?」  自分でも驚くほど穏やかな声で、八環はそう言った。 「ええ、たぶん、ここに。きっとそうなると、わたしが�想って�いるから。今度こそ、ちゃんと育ててあげるの。そうね、そのためにも、わたしは生きたのかもしれない。わたしがいないと、あの子のことを思い出してくれるひと、いないかもしれないし」  そう言って、未亜子は、そっと自分の下腹を押さえた。 「そんなことはない。忘れようたって、忘れられやしない」  八環が、未亜子の手に、そっと手を重ねる。 「あらためて、ほんとうの赤ん坊として……ねえ、そのとき、あなた、どうする?」  未亜子が、無邪気な少女のような声で問いかける。 「そうだな」  さんさんとふりそそぐ光の中。  八環は、ぎごちない表情で、彼の�想い�をはっきりと未亜子に告げた。ようやく見つけた、その言葉で。とんでもなく恥かしい、聖良が使っていたあの言葉で。  やがて生まれ出る子には、母だけでなく、父もいるだろう。 「あ〜、やたさんってば、何真っ赤になってんのぅ」  ドアがいきなり開いて、かなたが飛びこんできた。彼女は、ポットをさげている。後ろに続いている摩耶は、ホットケーキとティーカップをお盆の上に乗せて運んでいた。 「こら。騒ぐんじゃない。未亜子は、まだ調子が……」 「まあまあ、朝御飯置いたら、すぐに退散しますから」  迷惑そうに、眉をひん曲げている八環の肩を、かなたがぽんぽんと叩く。彼女は、にやにやと笑っていた。そのかたわらでは、摩耶がなんとなく頬《ほお》を赤らめていた。未亜子は、陽光の中で微笑《はほえ》みながら、彼女たちを見つめている。 「あ、そうそう。これ、どこの誰からかはわかんないけど花が届いてるよ」  思い出して、かなたはお尻のポケットから小さな花束をとりだした。それは、妖怪サラリーマンからの届け物。邪魔物となった、海赤子を始末してくれた礼だ。 「カードが入ってるね。また、お会いしましょうって。誰かな」  かなたも、みんなも、それが <ザ・ビースト> からの挑戦状だと知らない。だが、今はおだやかな安らぎの時間だ。  未亜子は、誰からの贈り物ともしれない花の香りを楽しんでいるかなたを、微笑みながら見つめた。 「かなた、ごめんなさい。そして、ありがとう」 「……どしたの、未亜子さん。急に、あらたまって」  八環の肩に肘《ひじ》を預けた姿勢で、かなたはきょとんとした。 「あなたにだけじゃなく、みんなに謝って、それからお礼を言わないとね。流くん、蔦失くん、有月さん、文ちゃん、霧香にも。マスターには、ほんとうにお世話になってしまって」 「よしてよ、みんな照れ臭がるだけだってば」 「照れ臭いのは、かなたでしょ」  摩耶が、にっこりと笑う。 「うるさいなぁ。じゃあ、摩耶ちゃんも、面と向かって言われてごらんよ」 「あたしは……いいわ」  摩耶が、まばたきをくりかえす。彼女にも、複雑な思いがあるはずだ。親を捨てた子だから。たもとをわかたぎるを得なかった事情がある。 「あ、うん、えっと」  だから、彼女には詳しい事情を知らせないでおこうとしていた自分なのに、そのことを思い出して、かなたは言葉に詰まった。 「だけど、幸せになろうね。みんな。そうなるように成長しようよ」  思いあまったあげくに、ようやく口にしたのは、そんな言葉。  けれど、みんなが笑って、そしてうなずいた。 [#改ページ]    妖怪ファイル [#ここから5字下げ] [土屋《つちや》野呂介《のろすけ》(化け土竜《もぐら》)] 人間の姿:ずんぐりした中年のおじさん。 本来の姿:身長一メートル半の、頭のでかい二足歩行のモグラ。 特殊能力:あらゆる物質を透過できる。触れた品物の過去のできごとを知る。地面を刃にして敵を切る。 職業:某私立大学の考古学教授。 経歴:地中に住んでいたモグラがひょんなことから妖怪化した。 好きなもの:昔のことを知ること。地中に眠っていたものを調べること。 弱点:強い光をあてられると目がくらむ。高いところが怖い。 [渡橋《わたはし》八重《やえ》(注連縄《しめなわ》の付喪神《つくもがみ》)] 人間の姿:ふくよかな中年のおばさん。 本来の姿:出雲大社の特大の注連縄。 特殊能力:お賽銭をぶつけて敵を切り裂く。巨大な体での体当り。 職業:旅館 <松屋> の女将。出雲大社の大国主命の秘書役でもある。 経歴:縁結びの神社の注連縄に、参拝者の想いが集まって妖怪化した。 好きなもの:男女の縁をとりもつこと。 弱点:燃えつきると二度と復活できない。 [海赤子《うみあかご》] 人間の姿:赤ん坊。 本来の姿:赤ん坊そっくりだが、体の一部だけが成人のそれ。鉤爪が生やせる。 特殊能力:水中で自由に行動できる。水を自在にあやつる。赤ん坊の笑い声で、魅了してあやつる。空間を越えて、敵の心臓を直接掴み出せる。腕が伸びる。 職業:女たらし。 経歴:山陰地方の伝説から生まれた。 好きなもの:若い女の乳房から血をすする。弱いものをいたぶる。 弱点:女の腕に抱かれていないと、一部の妖力・妖術が発揮できない。 [妖怪サラリーマン] 人間の姿:どこにでもいる、平凡な中堅サラリーマン。 本来の姿:中心から首が生えた巨大な歯車。 特殊能力:どんなに難しい収支計算も、多量の伝票処理も瞬時にやってのける。どんなにややこしいクレームをつけてきた客もなだめられる。歯車を回転させての体当りで、どんな敵も切り裂く。 職業:さまざまな大企業につとめるサラリーマン。 経歴:どんな命令でも文句一つ言わずに果たしてくれる、有能な部下が欲しいという経営者の願望から生まれてきた。 好きなもの:会社に利益がもたらされること。 弱点:会社に損害をもたらすようなことはできない。首を切られると死んでしまう。肉体的に首を切られるだけでなく、退職させられても。 [スキュラ] 人間の姿:二十歳前後の、清楚なギリシャ美人。 本来の姿:下半身から六匹の犬がのびている妖しい美女。 特殊能力:たくさんの牙で敵を切り裂く。美少女の微笑みで、敵を魅了する。 職業:妖怪界の傭兵および愛人。 経歴:ギリシャ神話を読んだ人々の心から生まれ出てきた。年を経るにつれて、殺人淫楽症的な傾向があらわれてきた。 好きなもの:ハンサムな男。 弱点:特にないが、陸上ではやや動きがにくい。魔女キルケを畏れる。 [クライブ、・キャンディ] 人間の姿:陽気なアメリカ青年。 本来の姿:頭の割れた血まみれの動く死体。 特殊能力:鏡の中に住んでおり、鏡に映った影を攻撃することで敵を傷つけ、倒す。 職業:暗殺者。 経歴:アメリカ西海岸の都市伝説から住まれてきた。 好きなもの:断末魔の悲鳴。 弱点:鏡面に映っていない相手には手だしできない。(一度映れば逃がさない)。 [ズデンク] 人間の姿:威厳のある壮年男性(南米のインディオ)。 本来の姿:蟹と人間をかけあわせたような巨漢。 特殊能力:水中で自由に行動する。両手のはさみで、何もかも叩き切る。緑の炎で、すべてをとろかす。 職業:職業的テロリスト。 経歴:南米の海岸に住む小部族で、戦《いくさ》と漁の神としてあがめられていた。白人の侵略で崇拝者を失い、戦いだけを求めるようになった。 好きなもの:とうもろこし、山羊乳酒。 弱点:甲羅《こうら》のないところをつかれるともろい。乾燥すると妖術が使えなくなる。 [あやかし] 人間の姿:なし。 本来の姿:全長数百メートルの、巨大な黒い海蛇。 特殊能力:全身からしたたらせる油で物理的な攻撃をすべらせる。油をあふれさせて船を沈める。 職業:なし。 経歴:日本古来の伝説からうまれてきた。 好きなもの:沈没した船をおもちゃにして遊ぶこと。 弱点:自分の炎に弱い。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  あとがき  くすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすく。  夜にふさわしく、忍び笑いで登場しているうちに、いつのまにやらすこやかにすくすくと成長してしまいました。友野詳です。  私にとってははじめての、シリーズを通してもまだ二作品目の <妖魔夜行> 長編版だったわけですが、いかがでしたでしょう?  今回の主役は未亜子と八環。  未亜子の知られざる過去と、二人の絆がメインです。  ……う〜ん、それ以上何を書くこともないですね。とにかく、読んでみてください。それで、わかってもらえるはずです。わかっていただけなければ……。  もっぺん読んでみて(笑)。  いや、まじめな話。この作品については、あれこれ言う気分になれないのです。おしゃべりな友野には、珍しいことですが。  かといって、これであとがきを終わるわけにもいかないし。  今までの妖魔短編を読んでいただいた方には、いろんなキャラの意外な面や、おなじみのあれこれを楽しんでいただけるでしょう。  これがはじめてというひとも、臆さずどうぞ。わかっていただけるように工夫はこらしたつもりです。ただ、今までの <妖魔夜行> のシリーズを読んでいただければ、百%の楽しみが、百二十%になるはず。 <妖魔夜行> シリーズのラインナップについては、表紙カバーの折り返しを見てみてください。そこに書かれたスニーカー文庫の他にも、スニーカー・G文庫からも何冊か出版されています。G文庫でのお勧めは、つい先日発売されたショートストーリー集『妖魔百物語 妖の巻』ですかね。設定データ集の『妖怪伝奇』や『闇紀行(八重さんファンはこれをチェックだ)』もどうぞ。 <ザ・ビースト> と <海賊の名誉> 亭についてお知りになりたければ、『東京クライシス』というリプレイ集があります。  そうそう、いくつか、忘れてはいけないチェックポイントがありました。  まず一つ目。  昨年の「鳩が夜に飛ぶ」に続きまして、今年もオークションで「妖魔夜行に斬殺される役で登場する権利」を獲得された方が登場しておられます。山口県の佃《つくだ》温《たずぬ》さん、御満足いただけましたでしょうか? 未亜子さんが歌っていたクラブのオーナーで未亜子さんにちょっかいかける、というパターンも考えてたんですが、色々あってこっちのほうになりました。ちなみに、来年行なわれる「JGC(ジャパン・ゲーム・コンベンション)97」でも同様の権利が、チャリティオークションに出品される予定です。お楽しみに。  今回、島根県に関した記述については、我がグループSNEの柘植めぐみの協力を得ました。ミスなどがありましたら、すべて友野の責任です。指摘されながら、わざと現実とは違ったままで残したところもありますけれど。  いつも素晴らしいイラストを描いてぐださる青木さん、編集部の河合さん、またもや原稿が遅くなって御苦労をおかけしました。八月末の丸一日、御一緒した東京取材めぐりは楽しかったです。作品にも反映させることができたと思います。  では、最後に恒例の、これからの出版予定を。  最後にと言いつつ、これからが長いんですけどね。  まずは、妖魔夜行のこれからの展望です。今年出る分は、この長編で終わりですね。来年は、いつもの短編集が一冊と、蜘蛛女の湧ちゃんを主役にした山本弘による連作短編がひかえています。G文庫のほうでは、とりあえず『妖魔百物語 魔の巻』でしょうか。グループSNEのプロだけでなく、読者のみなさんにも参加していただく、ごく短いお話ばかりを集めた本です。  ちなみに「ゲームクエスト」誌(角川書店刊)では、みなさんから妖魔夜行のストーリーを募集する <妖魔百物語の会> という企画が展開中です。私も <妖魔> 世界に参加してみたいと思われている方は、ぜひのぞいてみてください。  私の他のシリーズのほうでは、この『妖魔夜行』の次に善くのが『アビス・ワールド3 奈落に綺羅めく冒険者』ということになっております。のほほんファンタジーコメディ <アビス> もこれでいよいよ完結。ディエンデッタの運命やいかにってことで(う〜む、主役をさしおいてしまった。作者のお気に入りキャラがばれるのう)。  その後は、いよいよアンディとエフィの双子の冒険の結末にとりかかる予定。そう、みなさまお待ちかね(だといいな) <ルナル・サーガ> の続きです。ちなみに「ゲームクエスト」誌では、同じルナル世界を舞台にした新しい物語『カルシファード青嵐記』もはじまってますので、お見逃しなく。「ザ・スニーカ」誌では <ルナル・ジェネレーション> シリーズが好評連載中ですよん。  それから第一作『燃える星の宿命』、第二作『蒼い風のきらめき』が電撃文庫(メディアワークス刊)から、すでに登場している <小説央華封神> の第三作も、『アビス2』に前後してお目見えの予定です。これも自信作なので、チェックお願いしますね。  他にも、いろいろと秘密計画は進行中なのですが、それはいずれ。映像化とか音盤化とか、狙ってゆきたいものですが。そうそう「ASUKA ミステリーDX」誌に不定期ですが <妖魔夜行> のコミックが掲載されています。作者は、高田むつみさん。  いつか実写のTVシリーズになる日を夢見て(笑)、みなさん応援よろしくねっ。   一九九六年十月二十一日 友野�どっかに買いそびれたダイヤモンドアイのLDボックスおいてないかな�詳 [#改ページ] 底本 角川スニーカー文庫  シェアード・ワールド・ノベルズ  妖魔夜行《ようまやこう》 闇《やみ》より帰《かえ》りきて  平成八年十二月一日 初版発行  著者——友野《ともの》詳《しょう》